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竹下ユキ
エッセイ2001


2001年2月
どうなることやら。

2001年3月
定年とは何か。

2001年4月
異常だ。

2001年5月
老人と犬

2001年7月
イルカの日

2001年9月
「あきらめない」ということ

2001年10月
それでもあなたは無人島へ行くのか?

2001年11月
七面山登山ツアーとは。

2001年12月
鬼子母神でレヴューショーを見る。


最新エッセイ
2001年2月

どうなることやら。
 信じられない話だが、私がカルチャーセンターの講師になるらしいのである。事の始めは毎年行なわれる荒川区町屋でのクリスマスコンサートであった。このコンサートは私の企画ではあるが、地元の多大な協力の上に成り立っている。具体例を挙げれば、荒川区地域振興公社様からはコンサート会場を無料でお借りし、その上高級ピアノの調律代まで払ってもらっているのである。つまり、町屋の文化の一環としてコンサートを応援してもらっているという訳だ。そして更に一歩ほふく前進、荒川区の文化予算に組み込んでもらえる日を心より楽しみにしている。私は希望を持つということが好きだ。
 さて、この度振興公社に隣接する読売文化カルチャーセンター町屋教室より講師の依頼があった時、か弱い私に断る理由はない。実は当初先方は「シャンソン教室」を依頼して来たのであるが、どういう訳か私には「シャンソン教室」という名前が恐ろしい。実害を被ったわけではないのではっさりした理由を言えないのが何とも歯がゆいが、何やらややこしいイメージがあるのである。何故だろうとしきりに考える。今巷は大変なシャンソン教室人気だそうで、「シャンソン教室」と銘打っただけで生徒が大勢集まるんだそうである。何故か。.シャンソンは人生を唄う歌なので、静かに語ればよいし、若者には唄えない大人の歌である。しかるに音程やリズムより心だ。人生経験だ。熟年こそ唄うべき音楽だ。というわけで100人が100通りの人生と歌唱法を持ってして教室に集まるとどうなるか。100通りの自信に満ちた人生に対する指導法は無いわけで、増してやたまには奇麗なドレスを書てステージでスポットを浴びたいとか、あんなプロより私の方が上手いしお友達もたくさん客席に呼べるからシャンソニエに出演したいなどというところまで発展した場合どうするか。私は珍しくマイナス志向まっしぐらになっていた。ややこしい。ただひたすらややこしい。そうだ。「シャンソソ教室」はまずい。私は担当者にその旨を包み隠さず打ち明けた。すると先方はあっさり「では、お好きなタイトルを考えてください。」と好意的である。
 そうだ。私にはソロ活動の他にコーラスという芸当があったのだ。コーラス好き。こればかりは説明ができない。ハーモニーは気持ち良いというしかあるまい。過去にはソリストがコーラスなんぞするなんて、などと批判されたこともあるが、世界中何処を探したって、名前の有る人でコーラスのできないシンガーなんて居ないのだ。そのくらいヴォーカルにとっては必須科目なんである。そうだ、コーラスだ!しかし何のコーラスにしたものか。ママさんコーラスは私の趣味ではないし、自分もやっているゴスペルは確かに今大変なブームだが、信仰無くして賛美歌ばかりでは不自然であろう。そこで決めた。タイトルは「皆でポッフスを歌おう!」である。自分でも惚れ惚れするタイトルだ。

  めざせ、リズムとハーモニー。
  知らず知らずに身に付く歌唱力。
  笑っている間にシェイプアップ。
  たちまちあなたもスーパーヴォーカル。
  知る人ぞ知る竹下メソード!!

なあんてものがあるなら私も習いに行きたいものである。

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2001年3月

定年とは何か。
注:今月は大変よい論文である。(か?)

 今年も私に誕生日が訪れ、そういや去年はそれにかこつけてバースデーコンサートなんてものをやってしまったわけだが、今年はその勇気さえなく、さりとてどっかから降って湧いたようにプレゼントは来ないものかと控え目ながらスケジュール表に誕生日の期日を紛れ込ませておいた。すると、大変注意深く、かつ気の弱い健気な人たちより、夢にまで見たプレゼントをいただくことができたのである。めったに買わないハンカチやらスカーフやらブラウスやら、誕生日当日の朝届く花やら(こう書くといかにもフレゼントの山のように聞こえるが、終始一貫この4点であった。)生きててよかったと思う瞬間だったのだ。ああ、それと申し合わせたようにやってきた肩の痛み。首が回らないどころか腕が背中に回らない。これか。例の老化現象は。いったい年を取ることで何かラッキーなことってあるんだろうか。
 それに重ねて私は思う。いったいいつまで歌っていられるんだろう?20代の頃の自分は永遠だった。坂を駆け上がるように登っていくような気がしていた。それが途中で回り道もした。道も間違えた。どうしても超えられない山もあった。例えばドリカムの天才吉田美和様は言っている。「バアちゃんになっても歌うんだ。」確かに。あんたならできる。それをするだけの裏付けと商品価値がある。しかし、自分のごく近くを見回して、バアちゃんになっても聞きたい歌を歌う人ってちょっと思いつかない。もちろん、こつちが望まなくたって歌ってる人はいる。それはそれである。はて、と私は思う。ということは自分だっていつかはどこかで事切れるんじゃないか?ははあ、と私は納得する。ここはひとつ、それを逆手に取って自分で定年を決めよう。定年。これこそ会社社会独特の凄い仕組みだ。嫌がおうでも決まっているタイムリミット。しかしリストラと違うのは予め決まっているということである。つまりだんだん滅っていく砂時計みたいなものなんである。癌告知にすごく似ている。あんたはあと何年の命ですよ。確かにびっくりするわけだが、健康そのものでも、ある日突然石が落ちてきてポックリいくのとどっちがいいか。誰にだって平和三昧に長生きする保証なんてないのだ。
 死を宣告された人は何をするのか。ショックのあまり自殺なんかするんでは本末転倒であろう。自分の家が放火されるのは耐えられないので予め火をつけて燃やしてしまいました、みたいな話だ。あるいは、そんなはずはない、とばかりに奇跡と新しい医療を求めて生き続けるための努力をする人もいるだろう。逆に残された時間を心残りなく過ごすための努力をする人もいるだろう。死に向かっての準備とも言えるかもしれない。定年はこれによく似ている。うまくすれば一年や二年は伸ばせるかもしれない。天変地異が起きて制度が変わるかもしれない。あるいは天下りを狙うという方法もあるかもしれない。。しかし、節目はやっぱり節目なんである。不死身の人間なんて今のところ何処にも居ない。
 私の定年をあと15年後としよう。するとたちまち愉快な気分になる。その間どんな歌が残せるのか。何をして何をしないのか。いわゆるイメージトレーニングというのもこの辺のことなんじゃないかと思う。そしてそれとは全く反するようだが、音楽への情熱は年齢を超えているのである。人生が続いていくのと似ている。フジコヘミングは70を過ぎてから世の中に知られた。特異な経歴と気紛れな日本人の興味がたまたまぶつかったのである。それですら希なケースだ。きっと彼女は売れようなんて思って演奏したことは一度もないと思う。情熱が続く限り音楽の世界に定年はない。ただし、危機感なくしての情熱は有りえない。彼女がただのピアノ好きのお婆さんと全く違う次元にいる理由はそこだ。危機感。客観性。反省そして構築。歓び。情熱にはこうした成分が含まれている。あるいはそれをプロの条件ともいうんだろう。さて、果たして私は定年まで何ができるんだろうか。情熱だけはあると思っているんだけど。このまま腕が上がらないようじや、情熱も冷めるかもね。

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2001年4月

異常だ。
 色んな民族が袖触れ合って生きている都市というのは、どうしたって刺激的である。代り映えの無い毎日とパッとしない環境に気分が塞く時に、ニューヨークという街は強力なビタミン剤になる。そんなわけで、私はニューヨーク在住のミュージカルスターであり、同時に教会の音楽牧師でもあるリチャード・ハートレーというゴスペルシンガーのワークショップ、つまり歌手のための研修に参加することにしたのである。彼は"Mama l Want ToSing"という黒人ミュージカルの主役級で来日しているのでご存じの方も多いだろう。このワークショップは彼の友人であり、日本人でただ一人といってもいい素晴らしいゴスペルトレーナーが組んでくれたツアーなので小数の日本人のために丁寧に行なわれた。
 我ら十数人のゴスペル好きは4日間に渡るハードなレッスンを受け、最後にはリチャードが音楽監督をしているハーレムのブロンクスという中央から離れた大層危険な黒人街の教会で、日本の聖歌隊として礼拝の中で特別に歌わせてもらったのである。黒人と一言で言っても色んな部族やら混血やらで様々であるが、教会に真面目に通うような人たちは大変おしゃれで上品だ。肥満体が普通の彼らだが、どうしたらこんなに太れるのかと思うほど巨大である。比較的細い足の上に小錦級の胴体が乗っているので年を取るとたいていの人が足をひきずっている。痛そうである。しかし、礼拝が始まりオルガンやドラムが賑やかに奏でられると、老いも若きもその巨体を揺すぶって飛びはね、激しく手を叩き、大声で歌い、小刻みに体を震わせながら踊るのである。しかしよく見るとその顔は日本人の誰かによく似ている。この顔はあの人の顔を黒くして太らすとでき上がるなあ、ありや、○○さんにそっくりだ、などど楽しく観察は続く。みんな色んな人や動物に似ていた。中にはスフィンクスに似ている人さえいるのだった。やはり黒人は人類のルーツなんだろう。
 礼拝は良くできたドラマとして進行し、今週あった悲しかったことなどを思い出しては大いに泣き、ティッシュペーパーの箱を回して鼻をかみ、かと思うとたちまちハレルヤなどと叫びながら踊り、あんたら一体どういう神経してるんだと思うほど転換が早い。喜怒哀楽を人前で現わすことに何の照れもなく、たまった感情を吐き出してスッキリしているように見える。演じているわけでもなく、個人主義というわけでもなく、子供のように単純に喜んだり悲しんだりしているのだ。私はふと幼稚園でコンサートをした時の子供の反応を思い出していた。子供のまま大人になれた人はこんな表現ができるんだろう。歌と踊り。それが彼らの細胞の成分である。ごく普通の人がプロ級の技を持っている。我々の力の及ぶところではない。
 ミュージカルもしかりである。白人の芸がすこいのは個人の努力だ。黒人の芸がすごいのは民族の血に負うところが大きい。観客の99.9%が黒人、というゴスペルミュージカルを見に行った時、面白かったのはステージだけでなく客席もである。1000人以上収容する劇場で彼等はまるで茶の間でTVを見ているようにステージのいちいちに反応する。「オー!!」と驚いてみたかと思うと「そうだ。その通りだ。」と拳を上げて立ち上がる。歌姫が凄まじいソロを聴かせると、40代の分別盛りのご婦人が通路に飛び出して地団太を踏んで喜んでいる。みんな我慢なんかしないのだ。
 その上主役の歌姫と来たらほとんどマシンである。どんな声でも歌えるしどんな風にも歌える。いくらでも歌える。どんな音も出るし、その音を回転させ、舞い上がらせ、急降下させ、力強く伸びやかに、そして軽々と何の苦もなく笑いながら着地する。何なんだ、これは。恐るべし、ブラックパワー!!あまりにも凄いものを見ると、良いとか悪いとか、好きとか嫌いとかは一言も言いたくなくなる。オリンピックの金メダルにケチをつけられないのと一緒だ。
 「異常ですよね。」と日本人トレーナーは言った。そうなんだ。その通りだ。これは異常だ。私たちがダメなわけではない。人間技を超えた人だけが認められる異常な才能集団。何で私は日本人に生まれちゃったんだろうとか、やりたいこととできることのギャップとか、日本にいるといつも自分のアイデンティティーに悩む私であったが、ここまで超越したものを目にすると返って気分は晴れやかになる。私はこの異常な才能をうらやましく思い、憧れてもいる。でもそれとは別に私には私の正常値がある。どっちも私だ。憧れと現実を両方抱いて歌って行けぼいいのだ。難しく考えることではない。
 約一週間の密度の濃い旅を終え、また絶対来るぞと誓いながらご機嫌よろしく帰路につく。NYはやはりBIG APPLEであった。

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2001年5月

老人と犬
 皆さんは、「腰を抜かした犬」というものを見たことがあるだろうか? 私はある。それもはるか南の島でである。

我々5人の日本人観光客はまだ薄ら寒いゴールデンウイークの日本を、短パンにビーチサンダルという勇気あるいでたちで出発した。めざすは世界で一番美しい海のある島という、フィリピンはボラカイ島である。よくアフリカツアーに出かける人たちがサファリルックに身を包んで成田に集合している姿など見ると、あんた、いくらアフリカだからって向こうに着いたらいきなりサバンナでもあるまいし、あるいは何か?あっちの税関にはゾウやキリンが勤めてるとでも思ってるのか?などと思ったりしたこともあるが、自分の番になると平気である。心はすでに白い砂浜、青い空、だ。それに事実4時間足らずで到着するマニラ空港は真夏だし、それから飛行機やらバスやらボートやら乗り継ぐ時には少なからず海に足を突っ込むこともある。だから、私たちのスタイルは極めて正しい。

さて、ボラカイ島は聞きしに勝る美しい島で、パウダーのように白くなめらかな砂の海は透明感にあふれ、時間時間でその淡いエメラルド色を複雑に変える。夕暮れともなれば海に落ちていく夕日が反対側の空まで赤く燃やし、次第に影をおとす空と海は少しづつ夜に呑み込まれていく。まさに神の創造物である。

 海に向かって立つとき我々は言葉を失う。心の中まで神秘に包まれる。ところが、ひとたび後ろを振り返ると、そこにはやっぱり現実がある。「マッサージ?」と人懐こそうに寄ってくるオバサンたち。「サングラス、サングラス!」と次から次へと声をかける暇そうな青年たち。いったいそんなに皆でサングラス売ってどうするのか?観光客には目が4つあると思ってるんじゃなかろうか?それからトライシクルというオート三輪みたいなタクシーの運転手。この島には定価というものが無いから、何をするにも値段交渉しないといけない。もちろん向こうはふっかけてくる。ただし日本とは貨幣価値があまりにも違うのでふっかけられても所詮安い。ただ、日本人が騙されたふりをして法外なお金をばら撒いてくることはいいことなのか?我々ニッポン代表はこのことについて結構熱く語り合った。そして必ず値切ることにした。時には値切りすぎて相手が機嫌をそこねて帰ってしまうこともあった。恐るべし。ニッポン代表!!

 メインストリートは細い砂の道だが、欧米風のホテルやら南国情緒あふれたレストランなどで賑わい小奇麗だ。まずはその通りに目移りしながら歩くのだが、やがて細かいことが気になってくる。それはあまりに多い「のら犬」である。いたるところに痩せこけて元気のないのら犬が、生きているのもやっとでございます。といった顔をしてボンヤリしている。日本で、大事そうに抱えられて頭には派手なリボンなどつけ、どことなく気取った感じの愛玩犬を見慣れている私たちにとってそれは何とも奇妙な光景であった。彼らは人間に可愛がられようなどとは端から思っておらず、しかし何となくそこに居るのである。時には道の真ん中に、ある時は店の軒先に。人間の方も特別かまうわけでもなく、邪魔にするわけでもなく、平行線で共存しているという様子だ。中には101匹ワンちゃんで有名なダルマシアン犬などの由緒正しげな犬もいる。それがみんな痩せられるだけ痩せ、皮膚病だったり、腰を抜かしていたりする。それにしても腰を抜かした犬というは奇妙である。前へ進もうにも腰が抜けているのだから容易ではない。あちこちそんなのだらけである。

 そう言えばこの島へ来てからお年よりというものを見ないわね。さっきすれ違った人が初めて見る老人じゃない?ホンと。子供はこんなにたくさん居るのに一体おじいさんやお婆さんはどこに居るんだろう?この疑問はすぐ解けた。この島の平均寿命は50歳。みんな老人になる前に死んでしまうのだ。たちまち私たちの胸には複雑な思いが交叉する。

 乗馬をしに山の中へ入って行った。馬の背から見える部落の暮らしは、電気もガスもない薄暗い家々に、裸の子供や、ただぼんやりと座っているおそらくこの家の長だろう働き盛りの年齢の父親。彼らは仕事がないのだ。そしてこの暑さ。我々は日本人だからどんなに暑かろうと仕事以上に勤勉に遊ぶ。しかし、こんなに暑い所で暮らしていたら働く意欲は失せるだろう。

 ジャズライヴへ出かける。中年の白人のサックスとナニジンだか分からないキーボード奏者が二人で演奏している。客は少ない。ここだけは日本と寸分違わない。同行者が私を「日本で有名な歌手だ。」と紹介するものだから、結局歌う羽目に。ミュージシャン曰く。「何歌う?スタンダードは?新しい曲はダメだよ。」それで「Fly Me To The Moon」と「All Of Me」。日本の営業と全く同じ。ここまで来て何やってんだ私は。でも店からビール一杯おごってもらった。この島の人からおごられるなんて、すごく嬉しい。

 ディナークルーズへ出かける。観光客相手のばか高いショー。でも歌の上手いフィリピン人の中でも、この島一番のシンガーが出ると聞いてドレスアップして出かける。ところが、乗った船は屋形舟みたいなヘンテコな船で、客は私たちだけ。フィリピンパブのオカマショーが始まる。この島一番のシンガーはティナ・ターナーのCDに合わせて口パクするだけ。最終日に見事にやられたジャパン代表。

 そう言えばこの島では「猫」というものを見なかった。一度だけ目の前を、逆三角の顔をした縞柄の糸みたいな生き物を見たけどもしかしてあれが猫だったのかな?未だに謎である。

注:買ったばかりのパソコンで打ってみました。ちょっと変でも許してね。

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2001年7月

イルカの日
 夏の風物詩でもある花火。これはいいものである。もちろん夏休みの線香花火も捨て難いが、やはり夜空に高く打ち上げられる、あの大掛かりな仕掛花火は胸のすく思いがする。私は板橋区に住んでいるので、夏の花火には困らない。戸田橋の花火が家の窓からだって見えるからである。

しかし、やはり花火はなるべく近くで、打ち上げの「ドドン!!」がみぞおちに響くくらいのところで見なければいけない。そして、花火は一人寂しく見てはいけない。人生を考えてしまうからである。当然、大勢でビールを飲み、枝豆を食べ、今のは良かったとか、これはあの人の人生みたいだとか、ほとんど意味不明なことを騒ぎながら見るのが正しい。おまけに花火というものは日進月歩で去年よりは今年、今年より来年、というようにその技術とアートが進歩している。はっきり言って戸田橋の花火の技術はすごい。花火職人が冬の間どんな風に暮らし、なおかつ来年のために備えているのか、とても興味を覚えるところだが、私は花火職人なら嫁に行ってもいい気がするくらいである。(もちろん、相手にも選ぶ権利はある。)

 ところが今年は全く違う場所で、今年初めての花火大会を体験したのだった。それも仕事で。

 歌手という、定義のしようのない仕事を始めてから実に色々な場所で歌った、と胸を張って言えると思う。これは余談だが、例えばホテルのラウンジ仕事。これだって見える部分と裏側では大きな違いがある。一見綺麗で楽そうだが、実際はどのライヴハウスよりきつい労働条件で歌っていた場所もある。(今は行ってない所。念のため。)ラウンジが20Fにあったとしたら休憩室は窒息しそうな地下3F。休憩ごとに上に下にとずるずる衣装を引きずりながら、永遠に終わらないんじゃないかと思うようなステージと、最悪の音響と、死にたいほどのリクエスト。歌うことがすっかり嫌になったこともある。しまいには休憩室に行きたくないばっかりに、とにかくお客さんに来てもらって、休憩時間を客席で過ごしたり、本末転倒なこともしていた。何処とは言わないが箱崎あたりに近づくと今でも狭心症になりそうになる。(言ってるじゃないか。)

 もちろんこんなことは稀だ。しかし屋根のある場所というのはある種の規制に縛られていることも事実。私は若い頃パントマイム劇団にいたような素晴らしいセンスの持ち主なので、当然ストリートは好きである。ゲリラ的に人前に現れ、何かをやり、そこに居る人を煙に巻き、走り去っていくような在り方は大好きだ。しかし最近こそ「ストリート」などという言葉でおしゃれに語られるが、以前は道端で芸を見せるのは「大道芸」と呼ばれ、あんまり一般的ではなかった。私がお祭りを好きなのはこのあたりにも理由がある。「大道芸」が市民権を得る場所とでも言おうか?しかし、こと「歌」となると、ストリート的な仕事は少ない。大概、屋根のある場所で歌うものだ。残念なことである。

 そこへもって来た来た。ストリート的お仕事!!『江ノ島マリンパーク』!!そもそも湘南地区とのお付き合いは古く、湘南に住む同窓のOBがこぞって遊び好きなため私の出番も多く、実に体質が合うのだが、ここの館長がOGだったことがそもそものきっかけだ。ステージはイルカショーのプール。当然イルカが目の前で泳いでいる。時間は花火前の夕暮れ時。持ち時間は30分。プールの観覧席に陣取った花火客に歌ってみせるというシチュエーション。昼間イルカショーを繰り広げるお姉さん用のマイクはあるものの、客席は大きなプールを挟んだ向こうだし、イルカは泳ぐし、楽器が傷むからミュージシャンを調達する気にもなれなかったし、カラオケで30分歌うのも芸が無いと思ったしで、大変困った。HPを通じて私はどうしたらいいのか訴えてみたところ、イルカと泳げばいいだとか、面白すぎる意見しかもらえず、まったく八方塞がりであった。それにイルカは5時のショーが終わるとすっかり労働意欲を無くし、残業はしないようなのである。

 ところが、人間困れば知恵も湧くというもんだ。「アカペラで歌う」。それにカラオケも足す。私には世界のセリーヌ・ディオンのカラオケがある。もちろん「タイタニックのテーマ」だ。セリーヌ・ディオンは不思議なスターで、歌の上手さは素晴らしいが、その選曲やステージングのセンスには首を傾げたくなる。しかしこの日だけは心から感謝した。彼女のアルバムにはご丁寧に本人のバックコーラス入りのカラオケが付いていたからである。変なスターだ。それでもまだ不安だったので、最近ピアニカ演奏に燃えているピアニストA氏に参加してもらった。ピアニカなら大げさなセッティングもいらず、そのけたたましい音色もこの際効果的である。私はヴァイオリン、アコーディオン、ハーモニカ、ピアニカ、といった個性的なソロ楽器と歌うのが比較的苦手だが、(音色が自分とかぶるからかもしれない。)ストリートでは頼もしい楽器である。

 演奏中イルカたちはステージに寄ってきて、時にはステージに頭を乗せたり、一緒に口を開けてみたり、それはそれは可愛い。目をとじてお腹を見せた時にはどっか具合が悪いんじゃないかと心配したが、どうやら喜んでいる様子なので、かまわず歌った。イルカは3歳児程度の知能だそうである。好奇心旺盛で、飼育担当のお姉さんを取り合ったり、結構嫉妬深かったりもするそうだ。最後の曲ですと言って、Over the rainbowを歌った時にはステージが大揺れした。イルカたちがステージの下に入り込んで揺らしているのである。そんなこともライヴハウスではまさかあり得ないことだ。私はすっかり幸せな気分になった。その上、マリンパークからはご褒美として身長1mくらいのイルカの縫いぐるみをもらった。私はこれに「ペドロ」という名前を付け、抱えて帰って来たのである。イルカは幸せを呼ぶと言う。いったいこの私にどんな幸せがやってくるのだろうか?

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2001年9月

「あきらめない」ということ
 シャンソン歌手であり、10年来の友人だった坂本真理砂氏が先日亡くなった。子宮ガンを患い、2年半近くの闘病だった。死者について語ることは、リスクも多いのでどうしたものかと思いもしたが、やはり記憶が薄れてしまう前に自分の気持ちをまとめておきたい欲求のほうが強い。それほどこの人の「死」は特殊なものだったように思う。

 10年来の友人と言っても、ごく親しくなったのはむしろここ2年半、つまり彼女が闘病を始めてからである。それまでももちろん付き合いはあったし、一緒にチームを組んで仕事をしていたこともあった。時には夜中に電話が掛かってきて四方山話をしたり、譜面や訳詩をファックスしてくれとか主に頼まれ事をすることが多かった。そんな訳で恐らく同年代だとばかり思っていたが、亡くなってから実は私より10以上も年上だったことがわかった。私たちはお互いの年齢や経歴の話は全くしていなかったのだ。それにいかにも彼女は若々しかった。

 彼女には頼りになる身寄りも皆無だったし、病気になって働けなくなったら、我々のような職業は一変でアウトである。さしたる貯えがあるはずもない。ところが結果的に、彼女は最悪の条件の中で、最高のケアを受けつつ亡くなっていった。何故ならそれを彼女が本気で真剣に望んだからである。

 病気がわかった時にはすでに手遅れだったが、彼女は再生に向けて決してあきらめなかった。凄まじいパワーで病気と闘った。知人には片っ端から電話をかけ資金繰りもした。誤診が原因で発見が遅れたことを大変悔やんでもいたが、彼女のパワーをどうしてもっと早く誤診に気づく方へ使わなかったのか、不思議なくらいだ。その辺が人生の落とし穴なのかもしれないが。癌治療についての本を山と読み、いいと言われる漢方やら食品やらも何が効いているのかわからないほどたくさん摂っていた。入院先の治療法に疑問を抱き、他の病院の治療方法を使ってもらうなど、ひとつ間違えば針のムシロに成りかねないことも敢えて押し通す勇気もあった。そして何より彼女は最高の介護者をゲットしていた。
 池田朋子さんという女性を私が知ったのは真理砂氏の病室だった。彼女は長い間主婦業をなさっていたが、子供の成人を機会に、自分を見つめるためのひとり船旅へ出かけたそうだ。その船上で彼女たちは出会い、その後結果的に介護する人とされる人という(それも無償で)関係になった。池田さんは「主婦以外にできることをみつけた」からと言って真理砂氏の看護を、24時間365日体制で請け負ったのである。「これが自分の仕事だ」とも言って。
 これは単なる「美談」ではない。世の中に有り得ない奇跡である。何がそんなにまで彼女を動かしたのか?ふと気が付くと真理砂氏の周りにはいつも花があふれ、見舞い客があふれていた。健康な頃の彼女がそれほど面倒見のいい人だったとは思えなかったのでとても不思議だった。そして彼女の生きることへの欲求も私からしてみたら並外れていた。病室の人が次々と亡くなっていく中でどうして自分だけは助かると思えたのだろう?私は次第にこの人に引き寄せられていった。

 真理砂氏には「快」と「不快」の区別がはっきりしていた。たとえ池田さんが無償で奉仕してくれていようと、遠慮して言いたいことも言えないなどということはなかった。見舞い客はまるで彼女に褒められたいために訪れるようにも見えた。彼女は見舞いに来た人のいいところを取り上げて認め、かと思うと長居する客にははっきり「疲れる」と言う。どんな患者にも笑顔で接し、語りかけた。その言葉は筋が通っているだけでなく、どことなく歌うように詩的だった。しかし、だからと言って必要以上に踏み込まれるのは嫌だった。看護婦さんにも容赦なかった。  しばらく見舞いに行かないと電話やハガキが来た。あわてて病院に出かけると、同じように見舞いに来ている人がいた。彼女は人の心をつかむ術を心得ていた。その上、話をしている分には病人という印象が全くないほど頭脳明晰で口調もさわやかだった。もともと色んな本や新聞を読む人だったので話は面白く、飽きることがない。見舞いに行って逆に励まされることもあった。私はこの人は死なないな、と思っていた。病人にならない病人。
 痛みがひどくてホスピスに入った時はさすがの彼女も「空に色がない」と言って嘆いていたが、状態が落ち着くと、また希望を持ったようだった。ここはホスピスなのにまだ頑張ろうとしていた。日赤のホスピスの個室は広尾の街が窓から見渡せる高層マンションのような造りだ。こんな高級な場所でケアされていること自体、偶然が偶然を呼んだ賜物だったのだが、彼女は池田さんによりきれいに片付けられ、花のあふれた病室で亡くなっていった。息を引き取る前日に病室の電話で私を呼び出し、形見分けをしてから、「これ、あげたからって、まだ死ぬわけじゃないからね。」と諭すように言った。もう息も絶え絶えだったが、「食事の時間が過ぎちゃったわ。」とか、「もう少ししたら、また元気になるから。」とも言った。死んでしまったことに、一番驚いているのは彼女かもしれない。

 お葬式は彼女が救いを求めた教会で、花に囲まれて美しく行われた。スポットライトを浴びて、美しい歌を歌い、たくさんのお花をもらうのが好きだった、彼女らしい葬儀だった。強く強く願うこと。それが例えありえないような奇跡でも。彼女は「生」以外の奇跡をすべて手にしたように見える。「若くして死ぬのはいいわね。皆が集まってきてくれるもの。」教会員のご婦人がポツリとおっしゃった。なるほどそういう考えかたもあるか。でも、とすると、彼女が真剣に願っていたことって何だったんだろう?自分の「死」を華やかなステージにすることだったんだろうか?

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2001年10月

それでもあなたは無人島へ行くのか?
 無人島へひとりで出かける時、本を一冊だけ持って行っていいとしたら、あなたは何の本を選びますか?などという意味不明な質問を時々聞く。日本図書普及委員会かなんかの差し金かとは思うが、一体無人島に本など持って行ってどうするのか、と逆に質問したい。だいたい何で無人島へひとりで行かなければならないのか?そんなことがあるとしたら、それは正に非常事態だ。

 先日久々に結婚披露宴へ招待され、もちろん歌も歌うわけだが、100%仕事として行ったわけではなかったし客席で食事のできる嬉しさに、ウエルカムドリンクの段階で既に私はご機嫌だった。結婚当事者が決して20代ではなかったので、当然友人始め列席者も充分大人で、交わす会話もひねていた。9月末のさわやかな秋の昼下がり。しかし、世の中はまだニューヨークを襲ったあのおぞまじきテロ事件のショックから立ち直ったわけではなかった。

 新郎の友人(仮に田中氏としておこう)は言った。「アメリカの腰巾着みたいな日本なんかさ、テロリストが目障りだと思えば、一発でやられるよ。まず大都市の東京や大阪に原爆でしょう。下手すりゃ地球ごと無くなるかもよ。」何と乱暴な。「ノストラダムスの大予言ってまんざらじゃないよね。東の空からやって来る悪魔っていうのはアフガニスタンのことよ。」じゃあ、ノストラダムスはそのあとどうなるって言ってるの?「地球の3分の2が無くなるってさ。」ってことは皆死んじゃうわけ?「そうよ。だけどもういいじゃない。充分生きたんだから。」そうかな?「そうよ。僕なんかいい思いも楽しいことも一杯したから、いつ死んでも悔いはないよ。ユキさんだってそれだけ生きたんだからもういいでしょう?」え〜?私そんなに生きたわけ?ところでさ、これから披露宴始まるのに何か縁起悪くない?「そう?死ぬ前に結婚くらいしといてもいいんじゃない?」なるほど・・。そうとも言えるか。大人の会話だなあ。「地球の3分の2がなくなる時、僕、残りの3分の1に居たくないなあ。」そうね。それは分かる。こんなことを言いながら私たちは披露宴会場へ入場した。

 確かに「生き続けたい」と思う時には「生きていれば楽しいことがある」とどこかで思ってるはずだ。あるいはまだ一緒に生きて行きたい家族やら友達やらがいるとか、やりたい仕事があるとか。どっちにしろ希望的観測であることに間違いはない。少なくともつらいことだらけだとは思っていないはずだ。「夢がある」とでも言うのかな?ところが地球規模の災害が起こるとする。それも天災ではなく自然に反した破壊である。生存率が極端に低いとする。例え自分が生き残ったとしても見渡す限りの廃墟と誰もいない世界だったらどうするか?私には正気を保てる自信は無い。おっしゃる通りそんなことなら皆と一緒に一瞬のうちに消滅してしまった方がマシな気もしてくる。人間は決して地球上で自分だけ助かればいいなんて思ってないんじゃないか?どうしたって一人では生きられないのではないか?「星の王子様」だって最後は死んでいったではないか?あれは「孤独死」ではなかったのか?おそらくほとんどの人は、一人で無人島に行くようなことはしないだろう。人は人と居てこそ人でいられる。

 要は戦争などしなければいいわけだが、今回のテロは論外の話で、無論放って置くわけにはいかない。そこへ持ってきてそれを擁護する国があるんだから話はややこしい。なんとかに刃物だ。先日TVで各国の10代を集めて、「あなたは国のために戦いますか?」という質問をしていたけど「戦わない」と答えたのは日本人だけだった。中国の学生は「国のために戦えと教えられてきた」と言うし、イスラエルの青年は「戦争に負けたら国が無くなってしまうから戦う」と言っていた。アフガニスタンの学生は「アメリカが罪のない民間人を傷つけたら、テロリスト側に賛同して戦う」と言う。みんな戦争が身近だ。若者が戦うと言っている以上、戦争は無くならない。日本人は平和ボケしてるに過ぎない。今度ひとたび戦争があったら地球はかなりのダメージを受けるだろうに、愚かな戦いは本当に始まるんだろうか?

 ところで、田中さん。私が死んでも悔いのない年齢に見えるってこと?これでもまだ「夢」を探してる最中なんですけど。

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2001年11月

七面山登山ツアーとは。
 「何が悲しくてわざわざ苦しみながら、山になど登るのか?」とか「馬鹿と煙は高い所に登る。」と心からそう思っていた私なのである。ところが人生何が起こるか分かったもんじゃない。まさか自分が杖など突きつつ、その上「ナムミョウホウレンゲイキョウ」などと叫びながら険しい山道を登っていたなどとは、今になれば尚更冗談のような事実なのだ。

 事の起こりは大変熱心な法華経の信者さんに出会ったことだった。私は人間は信心を持つというか、何か自分を遥かに超えた大きな存在にコウベを垂れて生きていくのがいいんじゃないかと思う方だ。それを宗教と呼んだりするんだろうし、私は子供の頃からキリスト教会が好きで、誰に薦められた訳でもないのに日曜学校などに通ったりしていた。今思えば、賛美歌を歌ったり、劇をしたり、子供にとって楽しいことが多かったからだろうと思うが、教会に来ている大人が、大概優しい顔をしていたのも気に入っていた点である。だから、今でも人間の顔の判別はよくつく。信仰心が厚くても、信じているのがイワシの頭だったり、貴金属だったりするとすぐバレル。そもそも宗教戦争なんてものは、マトモな宗教であるなら奨励したりはしないはずだ。そのくらい教義は都合よく解釈されるから、信心深いことが必ずしもいいことではない。が、私が出会った法華経の方は大変聡明ないい顔をされていた。そこでお誘いに乗って、法華経のメッカである山梨県は「白糸の滝すぐそばの七面山」に同行することにした。夜も更けて、千葉の僧侶夫妻をリーダーとした一行はマイクロバスに乗って山梨県を目指す。中には小学生も居るし、特別信者でない人も居る。何だか皆穏やかな人相をしている。しかも新入りの私にも、とてもフレンドリーである。私も気楽な気持ちで混じり込む。

 まず夜中の3時に身延山に参拝。うっそうと茂る大木の間にある寺は大きくいかめしく、キンと冷え込んだ夜の大気の中でそれはそれは恐ろしいほどの圧迫感だ。お上人の唱えるお経の声はよく通り、太鼓の音は力強い。畏敬の念という言葉がこんなにも自然に湧いてくるのも驚きだ。時代を超えて、人々の祈りを受け止めてきた建造物の無言の威圧。それから七面山のふもとの坊で仮眠。いよいよ登山開始は朝の8:30。こんなに早くから活動している自分が誇らしい。

 我々の一行は14人。勾配のキツイ山道をナムミョウ・・・と言いながら登っていく。お上人は休むことなく太鼓を叩き、浪曲のように声をしぼってリードして行く。なるほど我々の発声法とは違って、のどを閉めて声を出す。こうすれば長い時間バテルことなく声が出るのかと思い真似してみたが、声帯を傷めそうなので止めておいた。途中妙な一行に出くわす。何百人で白装束に身を固め(それも汚れて黄ばんでいる)拡声器を使いながらお唱名をわめく。山道も休憩所もこの団体が来ると途端に様子が変わる。実は登山に際して、あらかじめこうした団体の話は聞いていた。いわゆる「ご利益仏教」とやらで、ネズミ講式に潤うシステムになっているらしい。人相というのは確かにあるなと、改めて確信する。ご利益のことばかり考えている人たちがこうまでも集まると、ほとんど病気の集団のようなものだ。さぞや人の弱みに付け込んだ教義なんだろう。休憩所を占拠して草団子を食べている様子を見ていると、ここは地獄かとも思える。若い信者は茶髪に携帯電話。道端にしゃがみ込んで大声でしゃべる姿は、渋谷の路上と何の変わりもない。私はすっかり菩薩の境地になって、この迷える子羊たちを温かく見つめていた。

 さて、予想以上の苦しみの挙句、辿り着いた頂上には、竜が棲むといわれる池やら立派なお寺がある。薄墨を流したような風景が下界に見え、たいそう幻想的だ。あちこちにお参りをして本日の泊まりは奥の坊と呼ばれる宿坊である。まずはお堂でお経をあげる。ここがキリスト教会との大きな違いだなと思うのは、まず、寒気の中お堂は開け放たれたれているので、異常に寒い。火の気もない。せめて扉を閉めたらどうかと思うところだが、どうも信者さんたちは寒さを感じていないようだ。その上、この寺の和尚人のお経にあわせて正座で読経すること40分。次第に私は、気を紛らわすためにあちこちを観察した。お堂の正面には当然仏壇があるわけだが、その前にうず高く積まれているのは、果物や和菓子などのお供物である。それらの下にはビールケースが山ほど。ふと横を見ると大きなご祝儀袋が並んでいる。しかも名前や金額がデカデカと書かれている。その風景は何かに似てるなと考える。そうだ。お祭りの時の本部(神酒所?)のテントだ。東洋の宗教はあけすけで気取りがない。それにしてもこの寺の和尚さんは若くてハンサムだった。顔もさることながら、その声は「逃げた女房にゃ〜」と歌わせたくなるほどの浪曲声。艶やかで伸びがよく力強い。チャンスがあったらどうやって発声しているのかうかがいたいところだったが、一通りの読経が済むと、さっさと扉を閉めてどっかへ行ってしまった。5時になった時の区役所の公務員みたいに取り付く島がなかった。きっとこういう特殊な場所にお勤めだと疲れるのだろう。信者との会話の交流は全くなかった。宿坊の食事は、当然肉や生もの抜きのヘルシーな粗食だが、2000メートルの慣れない登山をクリアした喜びに、出されるものはひとつも残さず、一人に1本ずつ記念品のように付いてくるお銚子は人の分まで飲み、その上持込のお菓子など大いに食べ、日ごろに増しての大食であった。
 結局仏のありがたみは身に付かず、2キロの贅肉を身に付けて帰って来ることになったのである。

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2001年12月

鬼子母神でレヴューショーを見る。
 水森亜土さんという画家がいる。「亜土ちゃん」として知らない人はいないと思う。それほど彼女のイラストは一世を風靡した。まだスヌーピーやらキティちゃんみたいなキャラクターが出てくる前のことで、ロマンティックでセクシーな女の子の絵の書いてある文具や置物に、日本中の少女たちは(当然ここには私も入っている)夢中だった。「アドちゃん」グッズを持ってない子なんて、よっぽどヒネクレもので、ウルトラマンシリーズの怪獣フィギュアをコツコツ集めているような、渋好みの女子以外には見当たらなかった。高度経済成長時代のちょっとした贅沢である。こうしたキャラクターグッズの先駆けとも言えるアドちゃんは、彼女自身が「グッズ」と言ってもいいほど、そのファッションといい、舌足らずの話しっぷりといい、「永遠の子供」キャラだった。

 それに比べて、この亜土さんがジャズ歌手だったということは、意外に知られていないかもしれない。が、彼女のプロフィール的には、ジャズやハワイアンの方が本職のようにも思えるし、今も都内の古いジャズライヴのレギュラーである。そして彼女の中で、恐らくもっと大きな場所を占めていることは、「劇団の主催者」だろう。

 「未来劇場」のアトリエは豊島区雑司が谷という下町情緒の強く残った小さな町の中にある。この土地は鬼子母神という伝説の子育ての神様の町だ。鬼子母神は500人の子供を産んだが、人間の子供をさらってきてはその子供たちを食べることで栄養をつけるという、とんでもない母鬼だったそうだが、ある日、あまりの残酷さを見るに見かねたお釈迦様が、この母鬼の500番目の子供を隠してしまった。すると鬼はすさまじい狂乱振りで子供を捜したそうな。そこでお釈迦様は「お前は500人もいる子供のうちの1人がいなくなっても、その乱れ様だ。子供を食われた人間の悲しみが分かるであろう!!」と諭してからは、すっかり反省して子育ての守り神になったそうです。めでたし、めでたし・・・か?(食われた子供たちは帰ってきたのだろうか?その結末が知りたい。)

 ま、そんな伝説がぴったりの「昔話の村」っぽい土地である。何より都電の駅のすぐそばというシチュエーションが風情がある。駅を降りてブラブラ歩くと、突然前方に普通の一軒屋があり、ただ、普通でないのは、家中お祭りの提灯で覆われていることである。こんな家は普通あるはずないのですぐにそれが「未来劇場」のアトリエであることがわかる。寒空の下、アドちゃんの古くからのファンで、最近は私の客席の常連にもなっている恵子さんと開場を待つ。アトリエの隣は大鳥神社で、目の前は墓地である。道理で、アトリエの外に飾られた花々は、菊とか彼岸花とかユリとか、普通ファンからもらう花とは一線を画した、ラインアップである。しかも花瓶として使われているバケツはどう見ても、墓参りに使うもののように見える。私達は次第に通夜に列をなす弔問客の気分になる。

 やっと会場に入るとそこは不思議な芝居小屋である。この小さな家のどこにこんなスペースがあったのかと思うように、しっかり大きなステージが組まれ、50人ほどの客はギュウギュウに詰め込まれる。ここで10日あまりの公演をすると言っても、キャパシティが狭いので、入場料はアトリエ公演にしてはちょっと高め。必死でスポンサー提供のワインを売ったり、アドちゃんグッズを売る出演者を見ていると、かつてパントマイム劇団にいた頃の自分を思い出し、ジンと来る。思わずビールやグッズを買い込む。

 やがて緞帳が閉まり、スモークが焚かれ、レヴューショーの「匂い」がしてくる。レヴューとはパリのムーランルージュのイメージの踊り子さんの世界です。露出の高い衣装に全身をダチョウの羽だらけにして、ヒラリヒラリとセクシーな踊りを見せてくれる。日本でもかつては日劇とか国際劇場など、レヴューを見せる小屋はたくさんあった。嘘みたいな話だが、この私だってそういうステージを踏んだこともあるのである。赤坂にクリスタルルームという小屋があったときにはダンサーとして出た(ウソウソ)。ダンサーは嘘だが、出たのは事実。ショーの中では派手なダンスの合間に歌やコントが入るものなんである。もちろん歌で出演したのです。コントじゃなくて。

 幕が開く。よく知ってるレヴュー特有の振り付け。衣装。時代が変わっても変わらないレヴューの化粧と衣装と振り。カラオケにスモーク、途中で出てくるお笑い芸人。ゲストシンガー(アドちゃん)のジャズソング。何一つ期待を裏切らないスタイルに、逆にびっくり。時代がさかのぼったみたいだ。ああ、アドちゃんのイラストの女の子が、どうしてあんなにセクシーだったのか、あんなに華やかだったのか、今やっとわかった。彼女の世界はこのレヴューの世界なのだ。「きれいなもの」「キラキラしたもの」「夢みたいなもの」そして「ちょっと毒のある世界」
 だんだんみんなが忘れかけている本当の贅沢を、彼女はこの鬼子母神信仰のある土地でやっている。なんと耽美的な・・。

 またアドちゃんは、ステージを降りると低音の声の、凄みのあるマダムに戻る。あの舌足らずの話し方は全くステージ用に作っているという徹底した世界作り。すごいと思う。何十年もステージに立つとグッズと化す。自分の美意識を形にするために、身を削っているとしか思えない。ある意味ではこの土地にぴったりな芸能かもしれない。

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