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竹下ユキ
エッセイ2004


2004年1月
ロングセラーを目指します!!

2004年2月
アダムス追悼。

2004年3月
嗚呼。ビックリ!!

2004年5月
嗚呼。またもやビックリ!!

2004年7月
発見!!これぞ日本語の生きる道

2004年9月
なぜ「なかにし礼」なのか。

2004年10月
さしすせそからかきくけこ。

最新エッセイ
2004年1月

ロングセラーを目指します!!
 私が2枚目のアルバムを出したことは、嫌というほどお知らせしているのでご存知とは思うが、このCDの製作に当たっては、私は現在世の中で普通になっているCDの製作・販売のあり方とは逆行したいと思った。試しに大型CDショップに行ってみよう。どこへ行っても黒人のラップがシャカシャカと流れ、それ以上短足に見せてどうするんだ、と思うようなずり下がったズボンを履いた若い男子や、威張った感じの若い女子の間をすまない気持ちで腰をかがめて縫って歩かねばならない。その上、大人と言えばジャズのコーナーに知ったかぶりの中年が2,3人。クラシックのコーナーにポツポツ。何とも居心地の悪いこと。それにこんなにたくさんのCDが並んでいたら、いったい何を買ったらいいのか皆目わからない。だからと言って、CDショップで「オススメ!」などと書いてある作品こそ要注意である。雑誌やTVや音楽評論家とタイアップして宣伝力を振るっている大手のCDメーカーのものばかりを取り上げるので、どこの店舗に行っても代わり映えもせず、その上買ってよかったと思えるものに出会えることは少ない。それに、CDは洋服と違って試聴コーナーに並んでいない限り試着もできず、本屋と違って立ち読みもできず、レストランの調理人と違って、品数が多すぎて店員が試食するわけにも行かず、つまり、一か八か。買うにいたっては、ほとんどギャンブルに近いのである。録音技術の向上でCDの製作が、昔のレコードに比べて遥かに簡単になったことも、作品数を増やす原因だろう。まさにプラスティック公害である。

 では、どうやって大人が聞くに堪える作品を探し出すか。結論はひとつ、口コミである。

 さて、自分の話しに移るが、誰でもCDが作れる時代になったことは事実だが、ではじっくり製作しようと思えばやはり簡単なことではない。もちろん資本もかかるが、それ以上に大事なのは何を作るかである。そんなことを考えているうちに前作から5年も経ってしまった。本来同じ作品をいつまでも売るよりは、新しい作品を次々と量産した方が確実に収益は増えるのだが、中々そういう気分にはなれない。確かに資本もないが、何より私は職人肌なのである。しかし、やっと重い腰が動いたのは、自分自身の音楽の進化と、やはりいいスタッフの存在だと思う。自分がいい方向に変わらなければ単なる惰性になってしまう、と常日頃思っているので、歌唱力や表現力が前作を凌ぐという確信が持てなければ製作には踏み切れない。そして、アレンジ・ディレクションその他もろもろ前作でも力を見せてくれた丸尾めぐみの存在。彼女自身がこの5年間で大きく進化しているし、今回の宗教色の強い作品には、教会育ちでもある、彼女の身体に染み込んだ音楽が確実に生かされたと思う。スタジオ使用時間が約200時間という、ファーストフード時代に考えられない手間暇を掛けたのも私たちのこだわりだった。

 CDショップに製品が並べられるのはせいぜい半年である。販売成績の悪い作品はどんどん排除される。だが、ロングセラーは口コミで売れ続ける。私たちが目指すのはそっちだ、というのが丸尾と私の共通の思いだった。嬉しいことに、1枚買ってくださった方がお友達に勧める、という方法で購買数は伸びている。じわじわと波紋が広がっていく様が、見ていて大変感慨深い。子供が旅に出た感じなんである。

 ちなみに東京は神田神保町のタクトというCDショップは私のお気に入りだが、(何故なら大手ショップには考えられないようなラインアップだから。落語・昔の歌謡曲・フォークソング・シャンソン・カンツォーネ、宗教曲など、大手からはみ出したものばかりが置いてある)私のCDも大変よく宣伝してくれている。その上、店のおじさんは精算の時に計算を間違う。電卓の使い方が下手なのだ。考えられないほど多めに間違ってくれるので、気の毒になって正直におじさんの間違いを指摘してあげることにしている。手作りなのである。こういう店を私は信用したいと思う。現に大型ショップの閉店が相次いでいる。行き着くところまで行ったら、あとは自然の法則に従う、ということなんだろう。やるべきことをやったら、力を抜いて天命を待つのも大切なことだと思う。ライブに来て私の歌を聴いてくれた人で、よかったと思ってくれた人は、是非このCDを買ってください。ライブとはまた全然違って、更に素敵な音楽が詰まっています。あなたに決して損はさせません。

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2004年2月

アダムス追悼
 何から話したらいいか途方にくれている。生きていれば幾度やむを得ぬ別離というのに出会うものだが、それでも納得のいかない別離というのは確かにあるのだ。この10余年、私が毎月出演してきたシャンソニエ「アダムス」のオーナー早瀬かず椰氏はある日突然亡くなった。前日に次のソロライヴの打ち合わせをしていたところが、その翌日には帰らぬ人となった。2004年2月3日。54歳。くも膜下出血ということである。

 彼は子供の頃から美少年で歌が上手く、既に成人した時は歌謡曲の歌手であったらしい。それが27歳にしてシャンソニエ(シャンソンの聞ける酒場)の経営者に転身し、それから26余年に渡って雨の日も風の日も新橋の小さなスペースで営業した。元来耳のいい人で習うともなくピアノが弾けたというから、自分で弾き語りでもしていればよかったはずだが、彼はそれだけメジャーの世界にいたにも拘らず自分は全く歌おうとはせず、店の切り盛りに徹し接客にいそしんだ。トイレは他の店と共同、天井裏をネズミが走るような、場末を絵に書いたような小さな店だったが、歌手の人選のよさと彼の洒脱さと音楽に対する真面目さと、噂が噂を呼んでアダムスはサラリーマンで溢れ返り常に店は満席で、入りきれないお客さんは新橋をほっつき歩いて時間をつぶし入場を待ったし、歌手は歌手でアダムスに出演することがステイタスのような意識を持った。もちろん「銀巴里」も「ジァンジァン」もまだ存在した頃の話だ。

 バブルに踊らず不況にめげず、とは誰かが言った言葉だったが、正にその通りの実直な経営で、だからと言ってアダムスが儲かっていたとは全く思えなかったが、ある日めでたく、崩れ落ちそうな店から少し広いスペースへの引越しが決まった。もともとの小さな店内には場所不相応なグランドピアノがあった。いったいこのピアノはどこから入れたのか、考えたら眠れなくなるね、などと皆が冗談を言ったものだが、そのグランドピアノは結局引越しする時には二度と表へは出られなかった。ビルの階段に余計なものが取り付けられてしまっていたので、入れた時とは様子が変わっていたのだ。そのピアノの話が出ると早瀬氏は必ず泣いた。お釈迦にしたピアノのことが可哀想だと言って泣くのだ。新しい店にはかつてのピアノから取り外した譜面立てが神棚よろしく飾られていた。彼のせめてもの供養だったんだろう。

 新しい場所に店を移したときには既にバブルは崩壊していたし、店内が広くなった分だけ経営は厳しくなったと思う。しかし、彼は大変だ大変だと言いながらもいい歌を聴けば誰よりも喜んだし、お客さんと一緒に冗談を言い合って笑ったし、ステージが終われば歌手やお客さんを引き連れて飲みにも行った。それが毎日のことだった。長い間には亡くなっていく歌手もいたが、その度彼はどれほど悲しんだだろう。自分の懐がどうであれ、ギャラの支払いが遅れることなど全くなかったし、お祝い、お見舞い、お香典と義理には人一倍厚い人であった。彼のことを悪く言う人に私はいまだかつて出会ったことがない。人をこれだけ愛し、人にこれだけ愛された人を私は見たことがない。

 ふと思う。世の中は売れることを第一に何もかもが回っている。特にポピュラーソングの世界はレコードセールスが人気の基準となり、あるいはどれだけ大きなホールにどれだけの人間を動員するかが目安となる。経済のことを考えれば当然のことである。早瀬氏のやっていたことは、それとは全く逆のことであった。自分の耳でいい歌かどうかを判断した。世の中の流行もどうでもいいようだった。あるいはいい歌を歌っていればアダムスが埋まるくらいのファンは付いてくるはずだ、と思っていたようにも見えた。しかし、いくら彼が愛される人であったとしても、毎日2人の歌手と1人のピアニストとアルバイトを雇いながら、来るかどうかの保証のないお客さんを待つのだ。どれだけ不安なこともあっただろう。時には自分の思いに反して歌手に彼の苦労が通じなかったり、不甲斐ない思いをしたこともあっただろう。しかし、彼が声を荒立てたという話も聞いたことがないし、考えられないほど失礼なお客がいた時は、言葉丁寧に説得することがあっても、その人が反省して再び現れた時は心から歓迎したし、彼の「お客様」という声が耳について離れない。

 こと自分のことを思うと、もしアダムスが無かったら私は世の中の時流に流されて、自分の歌を探そうとはしなかっただろうし、毎月彼に歌を聞いてもらい、激励叱咤されなければ果たしてこれだけ続けてこられただろうか、と思う。10年前に彼は私に「先輩の胸を借りて歌いなさい。」(アダムスは先輩の歌う前に後輩が歌うシステムになっていた。)と言っていた。それが次第に「よく勉強して偉い。」になり「遅々たるものだが上手くなってきた。」になり、最近はソロライヴを命じられることも多くなり「竹下も世の中に出なきゃ駄目よ。」と言い、こんな小さな世界で生きている私を励ましたのである。我々の歌う一曲一曲にあれだけ丁寧に照明を当てようとするライヴハウスがあっただろうか。いったい、こんな人がこれから先現れることがあり得るだろうか。まだまだこれからずっと見守ってほしかった。一人で途中下車はあんまりである。

 しかし、突然の死に、一番驚いたのは本人だろう。お葬式はしめやかに行われ、彼を愛する歌手やミュージシャン、お客さんが駆けつけたが、皆急なことにボンヤリしていたように思う。売上げを上げるために毎晩必要以上にお酒を飲み、少々の無理を押しても人前では常に冗談を言い、一から百まで自分の信じる歌のために生き、そしてある日突然いなくなってしまった。こんな彼の一生を垣間見たことを幸せに思う。また一つの時代が終わったことを感じずにはいられないが、私は今深い感謝で一杯である。これからは早瀬氏に恥じない歌を歌うことを目標に生きていかなければと思う。

 願わくば彼の魂が安らかで幸せでありますように。感謝を込めて心から祈ります。

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2004年3月

嗚呼。ビックリ!!
 よもやこれだけは生涯私には縁が無いだろう、と思っていたことがいきなり降ってきたのである。それは何とミュージカルである。だいたい日本のミュージカルにはあまりいい印象が無い。平たい顔して「ジョージ」だとか「フローレンス」などと呼び合いながら、両手を広げたり肩をすくめたりしている姿を見るだけで全身が痒くなる。それでもいいと思えるのは宝塚歌劇くらいだろう。あれは最初から作り物だから、どちらかと言うとコスプレやヒーローものの範疇に分類される。やればやるほど凄みを増し感動もひとしおというものだ。ところがこれがその他のミュージカル、それも翻訳劇になると全くお手上げである。その上あの、会話の途中でいきなりかん高い声で歌い始めたり、舞台に出て来るなり踊ったりする唐突さはどうにかならないものか。

 と、昨日まで私は心底思っていた。ところが一度自分に矛先が回ってくるや否や、そんなことは言っていられなくなるのである。郡司行雄さんという、作、演出、振り付け、プロデュースを全て一人でこなすスーパーマンは、かつては越路吹雪さんや上月昇さんなどの相手役を務めた男性ダンサーである。自分で劇団を持ち始めてから活動の方向は変わったらしいが、年齢不詳の若さと体力にはびっくりする。踊りも力強くて素晴らしい。その彼が書いたオリジナル作品の公演にいきなり私は担ぎ出されたというわけだ。私の役はサディアという中年のイカサマ占い師である。この作品は再々演なのだが今までこの役をやっていた人が出演できなくなったので何故か急遽借り出され、ただ今稽古の大詰めを迎えている。

 出演者の多くは彼の弟子らしい10代くらいの少年少女である。中には小学校に上がる前の幼児もいる。稽古の様子を見ていると、子供たちは本当によく踊る。ややこしい振り付けもたちまち覚えるし、とてつもないエネルギーに溢れている。ストーリーは地球が汚染され、そして破壊されていくまでの子供たちの愛と友情の物語とでも言おうか。私はその子達を見守り、それでいて裏切ったりする人間の弱さを表現しなければならない。失礼なことにどういうわけか私には振り付けはなく、歌とセリフだけであるが、これが中々大変なのである。だいたい歌を歌いながらドラム缶の上に飛び乗ったりするものだから発声は崩れるし、歌詞は忘れるし、こんなことで幕が開くのかと思うとゾッとする。私はライヴシンガーでよかったとつくづく思う。

 こんな目に合うとは全く予想もしていなかったのだが、どういう分けか最近ヒップホップダンスというのを習いに行っている。色々な種類の歌を歌っていると必ず黒人シンガーの作品にぶち当たる。そしてそのリズム感の凄さを思い知る。そんなことを思っていた矢先に、ヒップホップダンスはそのリズムに挑戦しているのだということを知り、レッスンを受けるようになった。白人が発明したクラシックバレエが常に天を目指して爪先立ちしたり反り返ったりして、マゾヒスティックで不健康な形を目指しているのに対して、黒人ダンスは大地をしっかり踏みしめて地球のエネルギーを吸い上げようとする。まずはこの心意気が気に入った。だいたい、クラシックバレエにせよ、ジャズダンスにせよ、若いうちからレッスンを受けていなければ中々上達はしないものだ。これはクラシックピアノなども同じ。大人になって始めてもたちまち壁にぶち当たる。ところが、ヒップホップはなまじバレエをかじった人よりは、盆踊りでもやっていた人の方がずっとサマになる。何故ならバレエ出身者は身体を美しく見せることばかりに専念するから大地を踏みしめることをあなどるのである。言わばコーヒーカップを持つ手の小指が常に立っている状態なのである。一体人間としてそんな態度でいいと思うのか!!コーヒーカップを鷲づかみにすることがあったっていいはずだ。そうだ。私だって踊りたい!!

 そんなわけで私はただ今踊りにはまっています。ダンサーとしてミュージカルデビューする日も近いかもしれない。くわばら。くわばら。ちなみに今回のミュージカル。あまりに急だったので皆様にご連絡が遅れました。ですが当日券もございますので、竹下の初舞台に興味のある方はどうぞお出かけください。笑っていただいても構いませんが、写真撮影だけはご遠慮ください。

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2004年5月

嗚呼。またもやビックリ!!
 郷に入れば郷に従え。これが先日初めてミュージカルに出演した私の感想である。突然舞い込んだミュージカル事件は、内緒にしたかったわけではないが、あまりに突然だったので皆さんに郵便でのご案内が届いたのが舞台当日、という間抜けさだった。それでも午前中に届いたDMをたよりに、その日の夜の部に駆けつけてくださった方々もいたので、まったく頭が下がるばかり。

この作品は舞台経験の少ない少年少女たちに現場経験をさせようという意図なのかどうかは分からないが、出演者の数はおびただしく10代が中心だった。依頼されて外部から出演しているのが私を含め数人の大人、というところだろうか。しかし驚いたのは、芝居の舞台に立ったことなどない私が歌より遥かに多いセリフをしゃべったことだろう。実際私の役は大役だった。私はこう見えても大変シャイである。歌ならともかく役者としての自分をさらすなどということは何より恐ろしい。来場したお客様の一人一人にお金を払いたいくらいだったが、そんな私の気持ちとは裏腹に入場料は殊の外高いのだった。私のソロコンサートでこんな値段を取ったら誰も来ないだろう。しかしどうなっているのかは知らないが会場は満席に近かった。きっと何か秘訣があるのだろう。教えてもらいたいものである。

本番の舞台から比べるとはるかに小さい稽古場で稽古は2ヶ月に渡ったらしいが、稽古期間の生活の保証は一切無い。親がかりの子供たちや大金持ちはいいかもしれないが、貧乏な私は仕事を休むわけにもいかず10日ほどしか参加できなかった。稽古に行く度に芝居の様子が変わっているのにもビックリだったが、本番の前日になって突然、実はセリフは台本と一字一句変えてはいけないというお達しがあり、またまたビックリ。最も大事なことが最後に通達される、というのも初めての体験。

それよりショックだったのは当日、出番前のお弁当の配給が無く、各自買い出しに行って食事を済ませたということだろう。何を隠そう私は機内食が大好物だが、楽屋弁当も相当好きなのである。だから自主公演する時にはスタッフやミュージシャンに出す弁当には結構気を使う。豪華なものは要らないが、何が出るか分からないスリルが魅力なのだ。それなのに本番前に自分でスーパーマーケットで買出しをするなんて悲しいことだった。聞けば芝居の世界はどこもだいたい同じようなものだと言う。出演者の数が多いのでいちいち弁当のことなど考えていられないのだろう。

芝居の出来は、と言えば、2日間3回公演する間に私はめきめきと力を付け、最初は最悪だったが、最後の公演では最高だった。私の歌の後に会場から「ブラボー!!」の声も起こった。誓って言うが、掛け声を掛けてくれた慣れた感じのお客さんは私の知り合いではない。本当に素晴らしかったのである。しかし、やっと素晴らしくなった頃に興行はお仕舞いだ。稽古期間はロングラン作品より長いのに、本番があっという間に終わってしまう。何と言う資源の無駄遣いであろう。歌のコンサートは所詮個人プレイだから、こんなにまで皆でそろって時間を掛けて準備する、などということは絶対無い。各自の毎日の精進に責任は託されている。それなのに芝居やミュージカルのような団体プレイは、何でもかんでも皆そろってなので、大変燃費が悪いのである。せいぜい1回でも公演回数を増やして実力をつけるしかない。しかしロングランに耐えうる作品というのもまた少ないのも事実である。

さて、もっと驚くことがあった。『竹下ユキを支える100人の会』というのが作られたのである。これは栃木県で牛飼いをしている人と、前世で何度も何度も牧師をやっていたと言われている茨城在住の作家の方を中心にできたものだが、100人というと本当に100人いるのか、と思われるかもしれないが、現在メンバーの数はたったの3人である。作家氏によれば、『100人というのは幸島のサルがイモを海で洗い始めて、洗うサルが100匹を超えたら、全く遠く離れた島のサルがイモを洗い始めたという100匹目のサルになぞらえたもので、これを「シュルドレイクの形態場の理論」と言う』そうである。私の応援をする人が100人を超えたら、遠く離れた人までもが何時の間にかまるでテレパシーを送られたかのように無意識に私の応援をしてしまう、ということらしい。何だかもっともらしい話だが、つまり私を「塩味のイモ」に喩えているのである。その上、発起人が「牛飼い」と「前世が牧師の作家」である。怪しい。それに気になるのが「塩味のイモ」として生きていく私の人生だ。イモを私の素材だとすると、塩味は何に当たるのだろう。歌だと考えていいのだろうか。とすると塩味の歌とはどんな歌なんだろうか。いくつになっても分からないことは多過ぎる。

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2004年7月

発見!!これぞ日本語の生きる道
 先日上半期大決算コンサートとして内幸町ホールで初めての試み「音楽エンターテイメント」というのをやった。タイトルを「幻覚のタンゴ」としたので、さぞやタンゴコンサートなのだろう、と思っていた方も多かったようだが、まったくそうではなく、私の1枚目のCDに入れた「幻覚のタンゴ」という曲を皮切りに始まる音楽劇であった。「幻覚のタンゴ」は毎度男に振られる女の悲しくもアホらしい歌だが、これは決して私の創作ではなくれっきとしたシャンソンである。昔のフランスのミュージックホールではこのようなエキセントリックで馬鹿馬鹿しい曲がたくさん歌われていたのだ。日本だって一頃はエノケンなどが歌う粋な洒落歌を聴けるショーがあったはず。今なんかよりず〜っと芸事が華やかだった時代だ。

 今回私が挑戦したのは、誕生日だというのに誕生日の回数を上回る失恋をしてしまった中年女性が、行きつけのピアノバーで憂さ晴らしに歌ううちに、過去にこのバーの専属歌手だった女性の置いていったノートを読み、絶望から希望へと変貌していく過程を歌で綴るストーリーである。私は台本を書くのは好きだが、芝居に関してはズブ(ブスではない)の素人だし、台詞の発声と歌の発声は明らかに違うことが分かっていたので、そもそも自信はなかったが、思いついたことはやらずに済まない性格なので、ほぼ3ヶ月をかけてストーリーを考え、選曲をし、ピアニスト(堺あつお氏。彼の存在はこのシリーズには欠かせないものとなった。特記すべき才能の持ち主。演奏も芝居も。)とリハーサルをし、まったく何が悲しくてこんなに儲からないことに熱中するかな、と思うくらい準備に時間をかけた。半年前のアダムス閉店以来、確実に私の仕事のやり方は変わってしまった。本当に自分が入魂できるライヴをしていくことをマスターの位牌に誓ったからである。これは単なるセンチメンタルではない。どんな場所でも侮るなかれ。そして失敗しても後悔しないだけの準備をしよう。今までの私はあまりに忙しく色んな仕事をこなし過ぎた。いい加減はこともいっぱいやった。失ったものもたくさんあったように思う。反省のあまり反動で段々一つのライヴの準備に掛ける時間が膨大になってしまった。しかしこんなに極端から極端に移行したのでは明らかに経済の法則に反する。来年の今ごろはのたれ死んでるかもしれない。さようなら、皆さん。(うそうそ。)

 コンサートの出来不出来はもちろんあったが、何より今回確信がもてたのは日本語の歌の可能性である。私は英文科を優秀な成績で卒業したので(これもうそうそ。)英語の歌も歌うが、それは日本語にはない素敵な音楽的ノリがあるからである。日本語は美しい言葉だが音楽的には非常に分が悪い。口先の発音で済んでしまうので歌の発声にはひとつも役に立たないし、子音の数も極端に少ないのでキレが悪い。確かに英語の方が音楽的に耳触りがよくリズムも立ちやすいので優れているのは事実である。意味が分からなくたってジャズは楽しい。ソウルは格好いい。何もかも日本語のせいにして、英語に救いを求めたこともあった。しかし、今回芝居仕立てだったこともあり、全曲日本語のコンサートをしてみて、日本語でもリズミックに歌うことはできるし、言葉はストレートに伝わるわけだから外国語で歌うよりは格段に内容が伝わりやすいし、いいこと尽くめだ。と日本語の可能性を感じたのである。その秘訣?それを知りたければ私のボーカルクラスにいらっしゃい、などとケチなことは申しません。(何を隠そう、最近は人様に歌などをご伝授しているのだ。長年の発声その他の研究で確実にわかった事があるので、黙っていられずにお伝えしている次第。)

 一言で言うならばイタリア人は何故あんなに無駄に声がでかいのか、ということである。それは必要以上に食物を摂取するので体力が有り余っていることもしかり、うんざりするほど目立ちたがり体質の民族であることもしかり。しかし、何よりその秘訣は母音の発声にある。母音を発音する際に彼らは私たちより数段喉の奥を広く使っている。口の大きさではなく喉のあけ方、とでも言おうか。だからイタリア語を勉強すれば日本人でも声は確実に大きくなるはずだ。身体が喉の開け方を覚えるからである。ただし、そのやり方で日本語をしゃべると、単に帰国子女になってしまうだけである。美しい日本語を発音しながらボリュームのある発声をするにはどうしたらいいか。そこで出てくるのは英語のリズムである。早い話がイタリア歌曲を勉強しながらジャズを歌っていれば、確実に歌は上手くなる。これからの歌手はイタリア歌曲とジャズを一般教養として学ぶのが一番の早道だろう。その技術をもって日本語を発音した時に初めて日本語の歌が国際的レベルになると思う。私はここに日本語の歌の可能性を確実に見た。私の残された人生でどこまでできるか、まったく分からないけれど、今私は日本語の歌に夢中です。

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2004年9月

なぜ「なかにし礼」なのか。
 私が最近積極的に日本語の歌に取り組んでいることは前回お話した。それは母国語で歌えば簡単だからなどという腰の引けた理由ではない。残念ながら歌を歌うにしては分の悪い日本語という言語でどこまで音楽ができるのか、ひょっとしたら全く結果が出ないかもしれない難題に引っかかってしまったからである。こういう自分の凝り性にはほとほと嫌になる。

 というわけで私はかつて日本を席巻した歌謡曲(和製ポップス)を研究するのである。今と違って流行歌の歌手がスターだった頃、多くの素晴らしいシンガーがいた。弘田美枝子・ザ・ピーナッツ・伊東ゆかり・黛じゅん(全て敬称略)・・・etc.上手いという定評のある歌手は片っ端から聞いてみる。確かに上手い。しかし、どの人も同様に変な泣き節を要所要所に使ってお涙頂戴をやるのである。簡単に聞き手を騙そうとする浅はかな考えにすっかり興ざめする。残念である。これは歌手が悪いのではなくレコーディングディレクター初め歌手に注文をつける関係者たちの音楽的意識の低さを物語っている。わずか30数年前の話である。この人たちが現代のアイドルだったら日本の歌謡界は今なんかより数段すごいことになっていると思う。

 しかし、その中で同じ歌を歌っても実に音楽的に歌ってしまっているのがグラシェラ・スサーナである。それから長谷川きよし。少しして石川セリ。彼らは外人だったりハーフだったり無国籍音楽を好むシンガーソングライターだったり、どうもその辺に鍵はありそうだ。舌足らずの発音がいいわけではない。そうではなくて歌うときの息の使い方が日本人とは全然違う。そしてそれに平行して詞や曲やアレンジもいい。グラシェラ・スサーナの歌うサントワマミーなどはこれがサントワマミーかと思うほど素敵なんである。けれどこの彼女にしてもあまりにダサい曲を歌わされた日には惨敗している。やはり詞は日本語だが曲は外国ものの方が勝ち星は多い。しかし「遠くへ行きたい」(中村八大氏作曲)などは大成功である。作曲家の技勝ちであろう。

 そんなこんなをしている間に日本の歌謡史でやたらとヒットの多い作詞家の名前が目に付く。「なかにし礼」。この人は私には流行歌作家としてはもちろんだが、シャンソンの訳詞家、そして近頃は直木賞作家として、また立教大学の仏文科の第一期生としての記憶が強い。あちこち調べているうちに、あの曲もこの曲も・・・とびっくりするような作品数でそれも昭和の歴史に残るような作品が多い。シャンソンの名訳も然ることながら、弘田美枝子の「人形の家」ピーターの「夜と朝の間に」タイガースの「花の首飾り」のような退廃的な歌・「時には娼婦のように」のようないかがわしい歌・「私バカよね〜」などという目出度い歌・「石狩挽歌」「風の盆恋歌」のような文学的格調の高い歌、かと思えばドリフターズの「誰かさんと誰かさん」「ほんとにほんとにご苦労さん」など。まだ聞いたことはないが、モーツアルトの歌曲の訳詞もたくさんある。いったいこの人は生涯で何曲の歌を世の中に産み出したのだろう。それもどうしてこうも色々なのだろう。

 そう思うと居ても立ってもいられず、彼の著書を読み漁った。「翔べ!わが想いよ」「長崎ぶらぶら節」「赤い月」「兄弟」「道化師の楽屋」「音楽の話をしよう」「恋愛100の法則」「音楽への恋文」「《時には娼婦のように》の日活映画の台本」etc.どの作品も眠気を忘れさせるようなスピード感と、世にも珍しい体験の数々に引き込まれていく。

 彼を語るとき昭和の戦争を抜きには話が先へ進まない。満州国で成金となった両親のもと贅沢な幼児時代を送るが、一転して敗戦。ソ連軍に追われての逃避行、ハルピンでの収容所生活、引き上げ船での旅。それにまつわる筆舌につくしがたい体験、おぞましい悪夢。日本に帰国しても故郷を追われ、安住の地を求めつつもがいている姿。実の兄からの執拗なまでの被害。そんな負の時間の中で彼は凄まじい数の仕事をし、同時に遊び、幾度となく心臓発作を起こしつつ、マイナスを力づくでプラスに塗り替えてきたとしか思えない。

 まずはその、体力とは違う人間の底力に圧倒されると共に、どうしてこうまで生きるパワーがあるのか、人間てそんなに力強いものだったのか、と不思議にさえなる。人を出し抜いても生きるのよ、と言って幼い子供を連れて帰国した母の傲慢にも近い強さ、根無し草として生きる自立心、常に「いかがわしさ」を愛する心。何もかもが負から生まれる強さなのである。そしてその彼が何よりも愛しているのは「歌」であり「日本語」なのだ。そう考えるとどの作品もすべて彼の体験が反映しているのが分かる。シャンソンの訳詞すらそうだ。「シェルブールの雨傘」は恋多き母親が恋人と離れるときのセリフだし、「群衆」は中学時代をすごした青森の「ねぶた祭り」が舞台だ。「ラ・ボエーム」は彼自身の学生時代だし、「石狩挽歌」はもちろんニシン漁に手を出した兄の転落の始まりの記憶である。思えば「雲にのりたい」はアイドル歌手の歌う歌にしては人生に疲れすぎている。「自分の書いた歌はすべて昭和という時代への愛と恨みの歌」と言い、どんな流行歌にも自分を反映させてしまうこの人はいったい何者なのか?人間には誰しもこんな底力が隠されているのか?

 「蝶のように美しく、蛇のように賢く、永遠に脱皮しつづけたい。」というなかにし氏は今年66歳である。この人は永遠に進み続ける。定年はないのだろう。一度もお目にかかったこともないが、エネルギーに溢れた氏を驚異の目で遠巻きに思うと共に、私は彼の作品を歌ってみたい、という気分になってしまった。

 気の遠くなるほどの作品群の中から、ほんのいくつかを私なりにチョイスして、まずは9月17日(金)にライヴをやります。是非ご一緒にその作品を体験してください。

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2004年10月

さしすせそからかきくけこ。
 最近親しくさせていただいているヒップホップダンスのインストラクターの女性は大変感性豊かな方で、ヨガからお料理まで、現代人に必要なリラックスや癒しをテーマに日々研究を重ねている。彼女がある日新幹線の中で出会った80歳くらいの女性の話をひとつ。

 たまたま座席が隣り合わせたこのお婆さんはこれからクラス会に向かうところだった。70歳からオカリナを習い始め、その日は彼女のオカリナに合わせて同級生が歌うので、膝の上には大事なオカリナが乗っていた。話が弾むにつれ色々な話題に花が咲いたが、やがて話題は「女性の心得」に。お婆さんのポリシーは「年寄りだからといって、地味な格好をしたり自分を向上させることをやめてしまったりせず、いつまでも綺麗でいることが大事」であり、その指先には清楚なマニキュアが塗られていた。

そして「これからの女性は“さしすせそ”ではなく“かきくけこ”よ。」と。それは何かというと「さしすせそ」・・・「さ」は作法・裁縫「し」は躾「す」は炊事「せ」は洗濯「そ」は掃除。これは昔の女子の掟だったらしい。しかし、これからはかきくけこ・・・つまり「か」感謝「き」気配り「く」くつろぎ「け」健康。そして最後の「こ」は何と「恋する気持ち」なのだと。80歳の方の口から出ると、説得力倍増である。

この話を聞いて私は深く反省した。そもそも女性の掟などを考えてみたことは今まで一度たりともないし、もちろん「さしすせそ」など端からカラキシ駄目である。しかし新種「かきくけこ」なんていうのがあったことにも気がつかなかった。そうか。さしずめ自分なら何だろう、と考えてみる。どうせなら「たちつてと」はどうか。「た」怠慢「ち」遅刻「つ」つまみ食い「て」適当「と」戸締役。冴えない。最近はピアノを少し練習するので爪を短く切りそろえており、丁寧にマニキュアを塗ろうという気分でもない。あんなに凝った補正下着もよく考えると結構息苦しいので敬遠している。エステ通いは指圧通いにコース替えした。新しい化粧品の宣伝にも心は動かない。何を使っても結局一緒だからである。ああ。80歳で生き生きとお洒落をする人があるかと思えば、わずか40代で捨て鉢になっている者もいる。そうだ。まだまだわずか40代ではないか。

今年はオリンピックでもパラリンピックでも日本勢は頑張った。国民にたくさんの金メダルという勇気を与えてくれたと思う。参加することに意義のあるオリンピックでも、いい結果を出すことはやはり素晴らしいことである。そして、この度のイチロー選手の快挙はどうだ。わずか10年前にいったい誰が日本人選手が大リーガーとして世界に通用する、なんて想像しただろうか。日本人は体を使う競技は土台無理だ、と皆が暗黙に了解していたようなところがある。そのジンクスが、個人の努力で塗り替えられることが証明されたのだ。年を取って更に稟と美しく。それはきっと可能なのだろうと思う。下へ下へとへりくだるボディーを何とかしよう。そうだ。私にはクリスマスコンサートで着たい衣装があるではないか。これを着るためには体脂肪を5%落とさなければならないのだった。あと2ヶ月である。呑気なことは言っていられないのだった。お婆さん、ありがとう。イチロー選手よありがとう。私ももう一度人生に挑戦します。

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