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竹下ユキ
エッセイ2002


2002年1月
だめだ。こりゃ。

2002年3月
北の街で頑張る人々

2002年4月
赤毛もの。

2002年6月
パソコンの弊害

2002年7月
確かにその通り。

2002年10月
この頃のこと

2002年11月
ああ、熱海の夜は老けていく・・・・・。

2002年12月
年の瀬のできごと。


最新エッセイ
2002年1月

だめだ。こりゃ。
 最近、親しくなったY 子さんは、色んな芸能に造詣が深い。忙しい仕事の合間をぬって、クラシックコンサートはもちろんのこと、ミュージカルやら相撲やら、この頃は私のライヴまで、実にこまめに見てくれる。男性のすごいところは、体力のあるところだとしたら、女性のすごいところは、好奇心と行動力があるところだと思う。私はしばしば、こうした女性たちから貴重な情報を得る。今回彼女から得た情報は、津軽三味線を聞かせるライヴハウスが銀座にあるということだった。シャンソンやジャズならいざ知らず、普段よっぽどのことがなければ身近で聞けない音楽が、目の前で、その上、お酒を飲みながら聴けるなんて楽しいではないか。私たちは京橋にほど近い銀座の裏通りを歩いた。縄のれんの居酒屋風ライヴを想像しながら。

 すると「津軽三味線とカラオケ」という看板があった。さほどの疑問も持たず店に入った。するとそこには着物を着たママがぼんやり「いらっしゃ〜い。」などと言いながらカウンターの中にいた。通された狭い客席は、どう見ても場末のスナックである。ステージと思しき所には、第一興商産のカラオケ機器とTV モニターがドッカと置いてある。嫌な予感がした。女性が2人でやって来たのが珍しかったのだろう。そこのオーナーと思える初老の男性は我々のテーブルの向かいに、まるで面接官のような威圧的な風情で座り、最近TVや新聞で、個性的なライヴとして取り上げられることが多く、記事を見てやって来る人が増えたのだが、あなたたちもそうかと聞く。そうではないと答えると、読売新聞の切抜きを見せてくれた。そうこうする内に、確かに新聞情報に誘われて来た家族とか、三味線を習い始めたカップルとかが現れる。私たちは客同士、たちまち打ち解けた。みんなこの店の、ライヴハウスらしくない内装に文句を言う。

 23才と25才の三味線奏者がステージにハッピを着て現れ、演奏が始まる。なるほど。間近で聞くと力強くていいものだ。2人で完全ユニゾンする。が、ものの15分もするとステージは終了。たちまち休憩時間だ。オーナーは奏者の腱鞘炎を防ぐため、とか言っていたが、15分ぐらいで腱鞘炎なんかになるものだろうか?私たちはこの奏者を客席に呼んで、楽器のこととか練習のこととか,色々話を聞いた。周りの客たちもこれに参加して、実に楽しい。我々は、三味線に触らせてもらって大喜び。何でも100万は下らないのだそう。まだキャリアの浅い彼らだが、楽器奏者共通の熱いものを持っている。髪は金髪だが、とても真面目ないい子たちだった。我々はすっかり嬉しくなって、彼らに普段やらないようなハーモニー演奏を注文。2回目のステージは緊張感のあるいい演奏だった。ところが、後方の客席は演奏中もグダグダしゃべっている。どうやら常連らしい。私たちが振り返っても一向に話を止めない。

 2回目のステージがさっさと終わると、奏者は店の外へ行ってしまった。私たちの周りの客も三々五々帰ってしまう。残ったのは常連とラストステージを待つ私たちだけ。すると常連オヤジ達は、急に我々の隣の席にピッタリ移動。その上第一興商のカラオケを使って、音程の無い演歌を得意げに大声で一人ずつ歌い出す。我々はビックリした。何故お金を払って、こんな歌を聴かなければならないのか?あまりの暴力的騒音に私は「ライヴを聞きに来たのであって、こんな騒音を聞きに来たわけではない」と着物のママに言った。するとママは、そうは言ってもカラオケが無いとお客さんが来ない。とか、演奏の合間に客の相手をするホステスを雇う余裕が無いとか、意味不明な言い訳を始める。こんなやりとりを聞いていた、公害の源は、私に向かって言った。「それなら、お前が歌って見せろ。」

 あとで聞くと、カラオケが盛り上がると、演奏時間が削られることもあるそうだ。「ライヴ」などという甘い名前を付けて、これは単なるカラオケスナックなのであった。恐ろしいことだ。愛煙家と嫌煙者を同じ部屋に閉じ込めて、あとは仲良くやってください、と言っているようなもの。カラオケは決して悪いものではないが、何もライヴの途中にやることはない。人の演奏を聞くことと、ウップン晴らしに歌うことは、食べることと、出すことくらいに次元が違う。どこの世界にライヴハウスで客のカラオケを聞いて喜ぶ人がいるだろう?せめて演奏終了後にするとか、新聞記事にライヴハウスなどと書かないとか。公害たちは自分が日本の文化を支えている気分なんだろうが。

 演奏時間を削られても一生懸命演奏する若い奏者が痛々しいが、若いうちの苦労と割り切って成長してほしいものである。それにこの若者たちの演奏は十分満足できるものだった。私たちは感謝を込めて、彼らにわずかながらお花代を渡した。すると、これを見ていたママは、「ギャラはうちから出してるんですから、余分があったら店のために使ってくださいな。」

 だめだ、こりゃ。日本に文化は育たない。優秀な人はみんな海外へ行きなさい。

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2002年3月

北の街で頑張る人々
 この仕事をしていて、何が面白いかと言えば、やはり「知らない人に出会う」ということだろう。見ず知らずの人の前で歌など歌い、よかったの、美しかったの、素晴らしかったの、言われるわけだから、随分幸せな職業である。特に地方へ出かけて行って、その土地の人の前で歌う機会に恵まれたときは、実に楽しい。だいたい、日本の人口の9割以上が、演歌嗜好であるのに、ジャズだの、シャンソンだの、舶来臭いものを、わざわざ呼んで聴いてくれようとするのだから、そのこと自体、ものすごく有難いことなんである。

 が、実際、遠方のクライアントと仕事をするのは、かなりの労力を必要とすることもある。何せ、打ち合わせは電話やファックスで済ますことも多いし、現場チェックもままならないので、予想もしないことが起こる。予め、余程頼んでおいても、音響設備にまったくお金を掛けずに、歌手はどんな状況でも、大きな声で立派に歌うに違いない、と大変都合よく経費節約をする所も、まだまだ少なくない。ある地方のおしゃれなリゾートホテルは、高い料金を取ってディナーショーを企画するのが好きだが、ここの音響ほど恐ろしいものは無い。どんなにこちらが警告しても、一向に平気である。改善したからと言われて出かけて行くと、ただ、「気合を入れた」だけだったりする。例えどんな立派な歌手でも、ひどい音響が大好きだ、などと言う人に私は会ったことがない。こうした、目に見えない音楽的環境こそが、お客さんが快適に音楽を楽しめるかどうか、を左右するということが理解されない。経費を惜しんで、本当のサービスを怠っている。残念なことである。

 ところが、地方でもお客さんが音楽を楽しむことを、第一に考えて頑張っているところだって、もちろんある。先日私が5年ぶりに出かけて行った、北海道苫小牧市にある「カプリス」という小さなシャンソニエは、この街の、この店を必要としている、ごくわずかな人たちに支えられ、この人たちのために経営されている。何せ、スピーカーを買うのに、個人のお客さんがポンと10万円寄付したりすることで、少しずつ環境を整えてきた場所だ。大変歌いやすい音響が魅力。

 久しぶりに訪れたこの街は、もともと工場地帯だし、お世辞にも華やかとは言えないところに持って来て、不況の煽りをまともに受けたな、と思うしかない元気の無さだった。名前も顔も、有名歌手を思いっきりデフォルメした、出演の「お笑いそっくりさん」(矢沢B吉だとか、一木ひろしだとか。悪い人ではないだろうが、全身から力が抜ける)の写真が載った、去年のクリスマスショーのポスターが、町のウインドウから剥がし忘れられているのを見た時には、心底「来るんじゃなかった」と反省したし、何より、シャッターを降ろして商売を止めたり、縮小しているところが目立つのには気が滅入った。やる気の無い雰囲気ほど嫌なものはない。

 そもそも憂鬱な旅の始まりだったが、カプリスの店主の山崎三枝子氏とピアニストの千葉昭治氏は、どこまでも明るかった。千葉氏は20歳を超えてからピアノを始めたハンディを、毎日の練習で補おうとしている。もう50を超えたのに、今だ努力を止めない。少なくとも5年前より数段腕を上げている。これはすごいことなんである。その上、彼がステージの初めに1曲聴かせてくれる弾き語りは天下一品である。優歌団のヴォーカルさながらの渋い声とブルースフィーリングたっぷりの歌いまわし。店主の三枝子氏は、相変わらず、お客さんを喜ばすために、利益度外視の料理を出したり、店を磨き上げたり、馬鹿な冗談を言ったり(これは彼女の自然な姿で、努力しているとは思えないが)果たしてこの人たちの努力は、どれだけ報われているのかと思うほど、持てる力の全てを店に注ぎこんでいる。彼らにとって、この城こそが人生なんだなと思うと、どこでも歌ったことがないほど、集中した歌が歌える。お客さんも、まるで吸い取り紙のように、私の歌に耳を傾け、一体この瞬間は何なんだろう、と思う。たまに行くからこうなのか、それとも愛情の注がれた場所の生み出す魔術なのか?

 そして、彼らは本当によく働く。一日中脳裏から、店やお客さんのことが離れない。少しでも楽しませたい。だから、自然労働時間も長くなる。私も彼らのペースで1日を過ごすと、夕方のリハーサルから始まって、ホテルに帰るのが朝の5時頃だったりする。すごいパワーだ。なるほど、この元気の無い街で、頑張るということはこういうことか。自分ももっとたくましくならないと、と反省する。ただ、こんなに働いたら、、疲れきって、声が出なくなりそうなので、歌手には向かない労働方法だとは思うが、一生懸命ということに関しては、頭が下がる。自分の好きなことや場所のために、気持ちや身体を丸ごと使う。何と清清しいことであろうか。

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2002年4月

赤毛もの。
 先日、Y子さんのお誘いで、T子さんと私の3人はパルコ劇場へ出かけた。Y子さんの同級生が演出をしている翻訳劇「バタフライはフリー」を見るためである。翻訳劇。昔はよくこれを「赤毛もの」と言った。私もずいぶん古い人間になった。さて、この「赤毛もの」だが、何と言っても不思議である。出演者はどう見ても日本人。あるいはどう多く見積もっても東洋系の役者だからだ。その人たちが、まるでニューヨークの場末のアパートに住んでいる、アメリカの白人のようなふりをしているのである。まず、名前がすごい。しゃべっているのは確かに日本語だが、ジルだとか、ダニーだとか呼び合って、時には両手を大きく広げ、肩をすくめ、「OH」とか「WAO」とか言って、私を驚かす。しかし、客席には若い女子が多く、そんなことを不思議に思っている人は居ないように見える。若い出演者の力の入った演技が続く。どうかしたのか、どうしてそんなに白人なのか、と思う。

 考えて見ると、私はこうした「赤毛もの」に慣れていない。芝居やミュージカルを見るとしても、大概はオリジナル作品だし、10代の頃よく見た宝塚歌劇は、最初っから「作り物」を売りにしているので、全く別物だった。だいたい、宝塚みたいなことをやっている劇団は、世界広しと言えども日本だけだと思うし、あれは十分オリジナリティーがある。ただの翻訳物とは言えないのである。これは余談だが、宝塚の舞台がもし地味だったら、誰も見に行かないんじゃないか、と思う。特に、大階段を米俵より重そうな(またまた例えが古臭い。)ダチョウかなんかの羽をしょって、平気な顔してスイスイ降りてくる男役は立派なものである。もし、彼女らがしょっているものが、不景気だからと言って、柳の木か何かだったら、私は怒る。入場料を半額にされても行かないだろう。

 さて、他に日本人がガイジンのふりをする世界と言ったら、シャンソンだって人事じゃない。歌の世界は3分で終わるので、おや、と思ってる間に通り過ぎてしまうが、それだって「あら、ボンジュール」と言われると、どうかしたのか、と思ってしまうし、「モン、シェリー、マダム。この夏はサントロペには参りません」などと言われた日には、どこか具合が悪いんですか。と心配になる。私には想像力が欠けているのだろうか?たぶんそうだろう。しかし、そうなると、他にガイジンものは無いか、と逆に気にかかる。音楽で言えば例えばジャズはどうだろう。日本のジャズシンガーで、英語がネイティヴ同様にしゃべれる人は、ほとんど居ないと思う。じゃあ、ジャズシンガーは皆アメリカ人のふりをしているのか、と言ったら、それは違うだろう。ジャズの場合、言葉の意味だけではどうにも追いつかない「音」と「リズム」の問題があるので、ナニジンであろうと共通に苦労するし、それは逆に英語がしゃべれても歌えるわけじゃない、ということが証明している。では、ハワイアンとか、カントリーはどうか?これらはちょっと、現地人のふりしてるかもしれない。何故なら、どうしてもアロハシャツを着るし、テンガロンハットを被ってしまうからだ。

 フリが必要になるのは、やはり「言葉」や「文化・習慣」を重視する世界だろう。ニューヨークの白人のはずが、90度にお辞儀をしたり、鈴木さん、山本さん、などと呼び合ってはまずい。翻訳劇の違和感にも、とっとと慣れなければいけない。などと思いながら、観劇していると、主人公の母親役の氾文雀さんが登場する。この人もアメリカ人の設定だが、ちっとも違和感がない。この人がナニジンでも関係ない、世界共通の話のような気がしてくる。

 芝居に安定感があるのである。無理がない。次第にフリは気にならなくなり、話の内容に引き込まれていく。この話のロケーションが、例えアメリカであろうと、日本であろうと、トンガであろうと、どこでもいい様に思える。なるほど。ここまで来れば、作品の意味も伝わってくるというものだ。結局、この作品はとても身近な話で、現代の我々にとってもリアルだし、いい作品だった。

 それにしても、冒頭のかなり長い時間、違和感に悩まされるということはどういうことか?こんな苦労するくらいなら、最初っからオリジナル作品だったらよかったのに、とも思う。いや、しかし、この作品を原作通りに日本の役者で上演したければ、やはり違和感とは背中合わせにならざるを得ない。見る側の努力も必要である。私もこれからは、なるべく翻訳ミュージカルなど見て、その作品の良さに、一刻も早くたどり着けるよう、目を慣らしていこうかとも思う。確かに目の訓練は必要だ。以前東宝の「ミスサイゴン」を見た時は、どの人が白人役で、どの人がベトナム人役なのか、結局最後までよく分からなかったことがあった。何故なら、役者が全員、東洋の顔をしていたからだ。いやはや、外見はあなどれない。あるいはそれよりも問題なのは、東洋と西洋の「違い」そのもので、蝶々夫人はやはり日本人で、というのにも似ている。これがブロードウェイだったら、東洋人の役は東洋人が、黒人の役は黒人がやるのだろうけど・・・。「違う」ということは素晴らしいことだ。そして、その違いを敢えて超えようとすることも素晴らしいことだ。こうした堂堂巡りの挑戦を、日本の演劇界はずっと繰り返して来たのだ。一体これからは、どんな展開になっていくんだろう? 期待したいところである。

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2002年6月

パソコンの弊害
 私がパソコンを購入してから、早1年が過ぎる。きっかけは、私の知らないうちに「ユキだるま」という私のスケジュール等がのっかったホームページ(以下HPと略)ができていたからである。HPを作製管理してくれていた人は、得意げにその様子を話すのだが、何ぶん自分がパソコンを持っていないので、何のことやらさっぱり分からずに、大変うらやましく他人事のように、自分の予定などが世の中に公表されている様を想像してみていたのだが、そんなことが半年くらい続いたあたりで、さすがに私もパソコンを持った方がいいのではないか、ということになり、1から10まで全部セッティングしてもらって、ようやく私のパソコンライフは始まったのである。

 私は機械はカラキシ苦手だが、このパソコンというものは、中身の複雑さに比べたら、その扱いは赤子の手をひねるより簡単だ。決まったことを決まった通りに、あるいは機械に指示された通りに従順にやり続ければ、最低のことくらいは難無くできる。例えばメール。これは大変便利である。言わば切手も封筒も余計なあいさつも無しに、今送りたい手紙を今送ることができる。私は携帯電話を電車の中などでチマチマつついて、コソコソ連絡を取り合う携帯メールとやらは、小市民的で大嫌いだが、両手を使って豪快に打つメール(私はYWCAの秘書科でタイプライターの学習をしたことがあるので、キーボードを打つのは鬼のように早い。10本の指をすさまじい勢いで動かして文章を打つため、メール通信の早さと言ったら並じゃない。その代わり言っておくが、誤字、脱字、奇文、乱文、お構いなしである。今思えば、昔の英文タイプライターは重みのある手動式で、キーを打つ指には相当な力が必要だった。おまけに改行する際には腕力も必要で、格闘技に近かった。)は大好きで一日に相当数のメールを配信する。私にメールをくれた人には歓び勇んで返信する。打った文章はボタンひとつでトットと相手のパソコンに移動してしまうので、書き忘れたことがあると、舌の根も乾かないうちにまた追伸する。多いときには同じ相手に1分間に3度も4度も手紙を出していることになるが、それでも謝る気にはなれない。何故ならメールは、相手が今どんなことになっていようとお構いなしに呼び出す電話と違って、相手が好きな時間にポストに取りに行けばいいようなものである。どうしても読みたくなければ読まない自由もある。実に奥ゆかしく、上品である。それに郵便屋さんのように、隣の家と間違えて配達したりしないので、信用が置ける。

 一方HPの方だが、これには「掲示板」というコーナーがあり、どういう訳だか、ここだけは管理者以外の人が自由に投稿(書き込み)できる不思議な仕組みになっている。つまり私のHPを見ている人全てが自分のパソコンから通信できる、言わば駅の伝言板みたいなものだ。で、これが中々面白い。通常歌手のHPの伝言板はその歌手のファンが今日のライヴはよかったの、衣装が素晴らしかったの、今度はどこであなたの歌を聴けますか、だの、言ってみればその歌手を中心に話題が進むものだが、私のHPに限ってはそんなことは一つも無い。誰かがお題を提供すると、その話題に関して意見のある人がそれに返信する。私のライヴや衣装が話題になることなど、稀なくらいである。だから、私も取り敢えず忘れられたくないので、ほぼ毎日勤勉に投稿する。さもなくば誰のHPだか分からなくなってしまうからである。おお。何と理不尽な!!恐らくこれは私のカリスマ性の無さに由来するのだろう。時にはどこからか全く知らない人から、セリーヌ・ディオンのCDを貸してくれ、とか意味不明な伝言が入る。私をレンタル業者と勘違いしているのである。大馬鹿者である。インターネットの世界には、予期せぬことが次々と起こる。しかし、それもこの程度だと話の種で笑って済ませられる。実に楽しい。

 しかし、徐々に私は自分の身体の変化に気がつくようになった。毎日パソコンの画面を見ているうちに、目は霞み、頭は常時ボンヤリするようになったのである。記憶力も著しく低下した。漢字変換は機械の仕事になったので、ほぼ100%漢字が書けない、という副作用も起こっている。その上、夜中にインターネットで遊んだりしているものだから、24時間がズルズルと繋がってしまい、昼・夜は逆転し、今日の日付けにも疎くなる。メール友達は増える代わりに、電話をかけてくる人間が極減し、次第に友達の実態が無くなってくる。外出するのが億劫になる。したがって運動量も減り、体脂肪が増える。顔つきも遠くを見るようなだらしない顔になる。このままではマズイ。

 が、この変化は単に年のせいだ、という人もいる。真実は私にも分からない。

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2002年7月

確かにその通り。
 今年もまた、江ノ島の花火大会に合わせ、江ノ島水族館では大きなイルカのプールの観覧席を利用して、花火用の特等席を用意したのである。その上、花火が始まる前の30分間は、何と竹下ユキの歌というオマケも付く。これは、人によっては要らないものかもしれないが、だいたい皆さん花火を待ちわびる気持ちで興奮しているし、ましてや、アルコールも入ったりしているので、心が寛大になって、遥か下方のイルカのプールに浮かんだステージの上で、何やら歌など歌っている人間がいたとしても、さほど腹を立てる人も居ないようだった。それどころか、観客の何割かを占める湘南立教会という遊び人の団体は、事のほか、賑やかに声援を送ってくれるのだった。

 今年は江ノ島水族館の中のマリンランド(イルカやアザラシやペンギンを見られるところ)は改装工事を控え、しばらく休園するので、リニューアル前の最後の盛り上りを見せている。9月16日の閉園へ向けて、クライマックスを迎えるのである。私がこのマリンランドへ来るのも、もう何回目かになる。演奏としては昨年が初めてだったが、不安定なプール上でのステージというのは、大変スリリングだった。おまけにわずか30分の演奏時間だが、始まる頃はまだまだ明るい空が、1曲歌うごとに、トーンを落として、見る見るうちに夜になる。この自然の不思議さは、夏の夜にイルカのプールで歌でも歌わない限り実感しにくいことだろう。

 さて、この日、私は「白井貴子」という、有名なシンガーソングライターと同姓同名で、時々勝手に勘違いをされ、顔を見た途端人違いと気付き、勝手にがっかりするお客に出くわすことがあって、本人は何も悪くないのに傷ついたりしている、大変けなげで、尚かつ気のいい女性ピアニストに伴奏を頼んだ。そもそも、こんなプカプカ浮いたプールの上に楽器を載せること自体、湿気やその他の問題で恐ろしいことなのだが、「後で拭けばいいから」と、いとも簡単に言ってのけるシライ。そして、自宅からキーボードやらスピーカー各種を車に積んで、バンバン運転して来る逞しいシライ。私はこういう女性を心から尊敬する。その上、シライが持ってきたのは、楽器だけではなかった。ビーチ用マットに日焼け止めクリーム。そう。私たちは、どうせなら早めに行って今年初の海水浴を楽しもうということにしたのだった。

 私が電車に乗って、水族館に着く頃には、シライはもうとっくに到着していて、裏のビーチでくつろいでいた。しかし、何と言おうか。江ノ島の海岸に横たわる者のほぼ99%は、どこから見ても若者と思われる人種と、さもなくば子連れである。我々のような、やや中年に差し掛かった女性などどこにも見当たらない。おまけに私が水着に着替えてビーチを探すと、水着姿のシライは頭に大きなバスタオルを巻き、缶ビールを飲み終わった頃だった。それはどう見ても風呂上りだった。それでもシライはよく見ると大変な美人なので、さっそく海の家のオジサンに話し掛けられたりしていた。何だか余計にわびしかった。私たちは、ビーチマットに座りながら、恐ろしい勢いで日焼け止めクリームを全身に塗った。「今更、シミは増やせないもんね」などと語り合いながら、シライはバスタオルで顔を覆い、私は雨傘を差して日よけにした。こんなにまで苦労しながら何故ビーチになど座っているのか、不思議だった。それでも、一応海水浴が目的なので「あんた、海に入らないの?」と私はシライに聞いた。すると彼女は「片足つけたら水が冷たいんで止めた」と言う。何と情けない!そんな意気地の無いことでどうする!と私は勇んで、ナンパ合戦に忙しい若者たちを尻目に海へ向かった。が、私は息が止まるほどビックリした。き、汚い。海が真っ黒でドロドロである。おまけにドブ川の匂いまでする。こんな海に入ったら、間違えなく病気になるであろう。私は恐ろしさに後ずさりした。結局私たちは、シライが海の家のオジサンに値切って借りたシャワーで日焼け止めクリームを洗い流し、憂さ晴らしにビールなど飲み、それでもシライはオジサンに7時からプールで歌うから来てね、などとお愛想を言っていた。

 つつがなくステージも終え、私とシライは立教会の人に混じって観覧席で打ち上げ花火をじっと見ていた。今年も花火職人の意地で、素晴らしい夏の夜空が出来上がって行く。ドシン・ドシンとみぞおちに響く巨大な花火を眺めながら、シライがぽつりと言った。「何かさあ、この花火、私たちみたいじゃん? みんなよかった、よかったなんて大騒ぎしてるけど、終わった途端、それっきり忘れちゃうもん。」あまりにタイミングのよい、いい得て妙な言葉に、突然、私の周囲には秋風が吹いていた。ああ、今年の夏も、もう終わりに近い。

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2002年10月月

この頃のこと
 某日。天王洲にあるアートスフィアという劇場に、Y子さんとT子さんと私は、バレエ劇を見に行った。出演者は1人を除いて全員男性ダンサーで、あちこちのバレエ団から選りすぐったメンバーらしい。出し物は「ジャン・コクトー 堕天使の恋」という素敵なタイトルで、フランスの詩人ジャン・コクトーと、コクトーが愛してやまなかった夭折の天才詩人ラディゲの恋愛を軸にして、コクトーのトラウマになっている父の死の謎をからませた、苦悩に満ちた、怪しくも美しい舞台であった。演出も振り付けも舞台美術も、洗練されて大変魅力的。

 まず。目を引くのは、出演男性ダンサーの美貌とテクニックである。日本のダンスの水準は歌などに比べると遥かに高いと思われる。ただ、日本人は体型で損する民族なので、「見られる」宿命のダンサーは気の毒だ。ブロードウェイでミュージカルを見たときも、日本人はちょっと見劣りした。どんなに背が高くても、踊りが上手くても、ゲルマンやラテン系混血やアフリカンもやっぱり同じくらい上手く踊るし、彼らに比べて日本人は俄然顔が大きいのである。遠近法が狂う。顔から前のめりで転びそうにさえ見える。残念である。

 しかし、今回は日本人ばかりの出演なので、顔の大小はほとんど分からなかったし(いや、そう言えば白人が一人混じっていたが、さほど違和感はなかった。)何より皆さん美しい。日本の男子はいつからこんなに美しくなったのだろう。(が、まだまだ全国的に普及するまでには時間がかかりそうである。何故なら、劇場を出て電車に乗ると、そこで見る日本男子は、たった今見たばかりの美の記憶をガラガラと崩してしまったからだ。)そして、何よりこのステージはモノクロの衣装がシンプルで、フランスの少年たちの雰囲気をよく出している。その上、贅沢にも音楽は生演奏でる。ピアノにパーカッションに弦楽器というアコースティックな編成が、上品さを醸し出す。ああ、素晴らしい虚構の世界!!しかし、これだけの公演がトータル5日間というのはどういうことだろうか?これが歌舞伎だったら、当然一箇所で一ヶ月公演はできるのに。日本の新しい芸能には時間というものが足りない。こんなことではいつまでたってもダメである。是非再演を願いたい。

 某日。あるロータリークラブの会合の後の歌のアトラクションを頼まれる。普通、ロータリーの集まりは、夜、ディナーショー形式で行われるものだが、ここはランチタイム。皆さん仕事の途中を抜けてきたと見えて、アルコール抜きで、忙しそうにターンテーブルの中華を食べる。その様子はどちらかと言うと、昼の定食屋の雰囲気。私とピアノのシライも一緒に食卓に着くように言われる。歌手は歌う寸前に客席で食事などしないものだと、いくら説明しても、それが決まりですから、とおっしゃる。どこの決まりか。おまけに私たちのテーブルはステージのまん前。ここでドレスのまま食事をして、やおら立ち上がって歌うのかと思ったら、めまいがした。その上、いきなり運ばれてきた茶碗には白米がうず高く盛られていた。仏様になった気分になり、気絶寸前だった。私もシライも泣きながらご飯を食べた。

 某日。江東区にある東京都現代美術館で横尾忠則展を見た。閉館1時間前に飛び込んだので、これだけの作品数を一辺に見るには無理があったが、それでも圧倒的なパワーとエネルギーにノックアウトされた気分である。この人の絵には身体の底からこみ上げる笑いがある。関係ないのもが平気で同席する。深刻なはずの世界の中に、何故かフクスケさんが丁寧に頭を下げていたり、落下する飛行機、風呂屋の書割のような富士山。それは戦争の記憶に結びつくのかもしれないが、あまりに飛行機はしつこく落ちるし、富士山はアッパレ呑気なご様子なのである。廃墟の上でポーズを決める宝塚歌劇の男装の麗人たち。雄叫びを上げるターザン。三島由紀夫。浅丘ルリ子。美しいけれど、どうしても笑わずにはいられない。私は気づいた。美と笑いは同居する。こんなことが歌の世界でできたらなあ。

 さて、今月は久々にマンダラでライヴ。新たなアイデアがあるんで楽しみなんだけど、どんなことになるやら。お客さんは入るかな?ま、とにかく、皆さん来てください!!

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2002年11月

ああ、熱海の夜は老けていく・・・・・。
 先日、音楽プロデューサーのM女史と、コーラスシンガーのY 子さんと、私は、前々から計画していた熱海の旅を実行した。我々3人は、年頭に広島でM女史のプロデュースによるコンサートをし、意気投合したのである。M女史は、60歳を過ぎたとおっしゃるが、到底そんな風には見えない。バリバリの現役プロデューサーで、全国各地を企業イベントや、芸能人のディナーショーの演出に飛び回っている。グループサウンズ華やかなりし時代には、作詞家として様々なヒット作品を世の中に提供した。類まれなる恵まれた家庭環境で、幼い頃からリベラルな教育を受け、アメリカンスクールで育ち、日本人が外国に行くこともまだ珍しかった頃に、びっくりするような海外生活でのエピソードをたくさん持つ、実にかっこいい女性である。どことなく、黒柳徹子さんや湯川れい子さんを彷彿とさせる、子供のような冒険心を持つ女性だ。彼女の話は何時間聞いていても飽きることがなく、だからこの熱海行きのお誘いを受けたとき、私もY子さんも、大喜びだった。何でもM女史のお母様が熱海の高齢者向け高級マンションにお住まいとのことで、熱海の情報には事欠かない。

 熱海と言えば、温泉街である。何となく浮かれたサラリーマンの慰安旅行のイメージがあったので、好きか嫌いかどっちかに決めろと言われれば、嫌いな類だった。ところが今回、熱海の意外な一面を見たのである。恐らく観光協会の意気込みなのだろうが、なかなか色んな工夫をしているのだ。まずは、リゾートホテルの応対の良さである。昔の熱海の旅館はずいぶん威張っていた。仲居さんなどは、お客より偉かった。しかし、今回私たちが泊まったホテルは大変親切だった。花火を見るために海辺までチャーターバスを出す。そこまではごく普通だが、くれぐれも言われていた集合時間に、やっぱり遅刻してしまった私たちを叱りもせずに、別のワゴン車でお姫様のような扱いで運んでくれた。で、私たちは花火の観覧席の一番前に悠々と席を取ることができたのである。

 その日は小雨のちらつく夜だったが、熱海の花火に雨天中止は無いそうである。台風が来ようと、蟹工船が来ようと、決行するのだそうだ。何故なら、ホテルと花火は手をつないでいるので、ホテル代に花火料金が含まれているらしい。だから、うかつにキャンセルはできないのだそうである。しかし、台風の時に海岸まで連れて来られるお客も辛かろう、と思ったら、そういう時はホテルの部屋から見るのだそうだ。何だか、ちょっとごまかされたような気分。始まってみると、予想以上に近い場所で打ち上げられていることがわかる。空一杯に巨大に広がる花火を見上げているうちに、すっかり首が痛くなる。その上、打ち上げのヒュ〜ッ!!という音は、殆ど空爆である。そして火の粉が降ってくる錯覚に襲われる。確かに花火とは空に向かって爆弾を打ち上げることで、これだけ近いと恐ろしさも倍増するというものだ。時には花火の燃えカスが飛んできて目に入る。頭に筒状のものが当たったので、何かと思ったら、点火芯だったりした。ふと、後ろの席を振り向くと、ギッシリ座っていたはずの人たちが、スッキリいなくなっている。皆、恐ろしいので、遥か後方に撤退した模様だった。

 翌日は公共の施設のスパに出かける。スパというのはスポーツジムと銭湯が一緒になったような施設で、水着を着用して利用する。ここの施設は、流れるプールやトレーニング用プール、滑り台などの他、数え切れないほどのジャグジーと、素敵なサウナも数種類ある。別料金でマッサージも受けられる。プールもジャグジーも温水なので、実に気持ちいい。しかし、さすがに高齢の観光客の多い土地らしく、水着姿もかなり高齢化している。ご婦人方の水着姿は原形が想像できないほどデフォルメされていて、こんなに太ってよく歩けるな、と感心する。お爺さんたちは、どうもジャグジーと銭湯の区別が付かない様子で、どことなく入浴気分。既に1キロ泳いできたと自慢する壮年男性とサウナで同席したが、どうしてもたるんだお腹と競泳用の男性用ビキニは勘弁してほしかった。しかし、何より不気味だったのが、若い女子のビキニ姿である。だいたい、若いということ以外特徴のない女子はビキニなど着るものではない。あれは、青空の下で大らかに健康美を誇る、溌剌としたスポーツウーマンが着るものである。間違っても熱海の屋内のスパで、青白い顔をしつつ、その上、何を恥じているのか、ビキニの上に腰巻など巻きながら、恐る恐る歩くべきではない。初めて二本足歩行に成功した類人猿のように見える。そんなに恥ずかしいなら、私たちのように、最初からスクール水着で泳ぐべきなのである。

 M女史のベンツをフル活用して、あちこち出歩くと、どこも駐車料金は安く、長期滞在者向けの洒落たレストランや施設があることに気づく。病院も多い。目の前に広がる海と温泉。新鮮な魚介類。体型を気にすることなく、出入りできるスパ。もしかしたら、熱海は老後を過ごすには、大変ふさわしい土地かもしれない。

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2002年12月

年の瀬のできごと。
 年末になると、色んなことが起きる。世の中も年越しをかけて物騒になる。歳末助け合いもあれば、歳末奪い合いもある。巷が色濃くドサクサ度を増すとでも言おうか。

 今年の私は、雑用の隙間を縫って仕事をするような煩雑な一年だったが、さすがに年の瀬ともなると、疲労がたまる。

 私はもともとそんなに剛健な肉体の持ち主ではないので、倒れるまで働いたりするのは嫌いである。過労死などという死に方は一番避けたい。そんなことなら、しゃっくりが止まらなくて死んだり、驚いた拍子に死んだほうがよっぽどマシだ。で、多少でも身体に不調があると、マッサージや整体、その他身体によさそうな所へはマメに通う。先日も疲労が回復しないので、家の近所に整骨院の看板があったのを思い出し、試しにドアを開けてみた。骨折はしてませんが、よろしいんでしょうか、と尋ねると、驚くほど太った、ピンクのユニホームを着た若い女子が「どうぞ、どうぞ」と愛想がよろしい。院内は広いが、ところ狭しと置物があふれている。7人の小人の縫いぐるみの隣に布袋様。あちこちに相田みつをさんやら、孟子やらのありがたい教訓が貼られ、その合間には「巨人頑張れ」などの垂れ幕や、「私は柔道を応援しています」といったノボリが飾られている。保険がきくということもあるのだろう、老人にも人気があると見えて、院内にはお年よりの俳句の短冊がぶる下がっていたりもする。院内全体が老け込んだ幼稚園みたいに賑々しく幼稚で、なおかつ意味不明である。

 治療をしてくれる院長は、40代後半のいかにも柔道上がりの男性で、恐ろしく力が強い。悪いと思われる箇所を満身の力で押してくれる。骨の弱い人ならきっと骨折するだろう。でも、私はマッサージには慣れたものなので、多少痛かろうと、死にそうだろうと、さほど気にも留めずに、言われるがままに1週間ほど毎日通った。すると、次第に私の体重は何の苦労もなくどんどん減り、目は落ち窪み、全身には痛みが充満。それでも言われるままに通い続けると、ある日、助手の女性が登場。毎日通い続けることがどれだけ大事か、を切々と説きながら、力いっぱい私の首筋を押す。すると、頭からスッと血の気が失せ、意識が遠のいていくのだった。どうもこれが気を失うということらしい。しばらく横になって休ませてもらう。楽になるまでゆっくりしていっていいですよ、などと言ってはくれたが、仕事があったのでゆっくりしてもおれず、フラフラしながら取り合えず帰宅する。

 いくら素直な私でも、ここまで来ると少々恐ろしい。以後、この整骨院に通うのは止めたのだが、最近はすこぶる体調が良い。これは、通ったお陰なのか、通うのを止めたお陰なのか、どっちなのだろう?それを確かめるために、もう一度行こうかな、とも思っているが、何か万一のことがあった時に、この年末だと、病院をたらい回しにされそうなので、そういう試みは年末年始を避けてやってみようかと思っている。

 それはそうと、いつも雑文読んでくださりありがとう。来年は是非、飛躍の年にしたいものです。呆れず、懲りず、応援してください!!

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