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竹下ユキ エッセイ'97/'98 1997年11月 ついてない人に幸あれ。 1998年2月 涙の補正下着 1998年3月 続・涙の補整下着 1998年4月 涙の補整下着・完結編 1998年7月 ランドーさんのこと 1998年8月 続・ランドーさんのこと 1998年9月 再・ランドーさんのこと 1998年10月 入院 ご報告記 最新エッセイ |
1997年11月 ついてない人に幸あれ。 世の中にはどこまでもついてない人がいるものだ。私は自分がそれ程運のいい人間とは思っていないが、あの時ばかりは下には下がいる、と痛感した。忘れもしない10月24日、私は友人宅を訪ねるべく電車に乗っていた。慣れない駅で降りなければならないにも拘らず、私はいつもの調子で居眠りをした。フト気がつくと目的地だ。それも今まさにドアは閉まろうとしている。これは大変とばかり私はドアヘ向かった。車内は適度に混んでいて、ドアの周辺にも人垣があった。恐らく私の殺気に気圧されたのだろう。一人のおじさん(と、どうしても呼びたくなるようなタイプの人)がラッシュ時によく見かけるあの「とりあえす自分が降りて中の乗客を外へ出してやる。」をしてくれたのである。首尾よく私は電車を降りた。そしてその途端ドアは閉まってしまった。おじさんと私をホームに残して電車は走り去ってしまったのである。私はいい。ここは私の目的地だ。しかしおじさんはどうだろう?少なくとも嬉しくはないはすだ。私はすまなさで胸が一杯になり、おじさんに丁寧にお詫びを言った。ところが今思い出しても悔やまれるが、何と私はあやまりながらあまりの彼の不運に大笑いしてしまったのである。 おじさんはそんな私に文句をつけるわけでもなく、力なく向きを変えベンチに向かって歩き出した。まるで自分がついていないのは生まれつきだとでも言うようにあきらめながらベンチに座るその姿は哀愁さえ漂っていた。人気のない昼間の駅でいつ来るかわからない次の電車を持ってじっと座っているのだ。私はよっぽど次の電車が来るまで一緒にベンチに座って話でもするのが礼儀かとも思ったが、急いでいたこともあって彼の神経を逆なでしないようにソロリソロリとベンチを遠巻きにしながら出口へと歩いた。ここまで来ればもう私の姿は見えまいという所まで来て後ろを振り向くと、おじさんはさっきのまま、じっとうなだれた風情で固まっていた。 ついてない人は他にもたくさんいる。終点まで開かない側のドアにコートの裾をはさまれた人。この間は酔っ払いだか浮浪者だかにからまれて、町なかをそろって走って逃げている一家(それも全速力で。家族構成は老婆、60代の両親、20代の娘ふたり、10代後半と思える息子、の6人だった。)も目撃した。 世の中が複雑になればなるほどついていない程度も様々になる。いつ何時自分にその順番が回って来ないとも限らない。ついてない人を見るたびに、心の中でそっと手を合わせる私なのである。 1998年2月 涙の補正下着 会回の話題は女性のみに読んでいただきたい。つまり、男性には読んでいただきたくないお話である。ことの初めは『体脂肪』であった。ひょんなことからタニタの体脂肪計を購入した私。昔から健康グッズには目のない我が家には、昔なつかしい「ブラサガリ健康器具」から、いくら歩いてもちっとも景色が変わらない「歩行器」・雪がなくてもできる「スキーマシン」・腰痛などに効くとされる「遠赤外線放射器」・冷え性に効果のある「足浴器」・もちろんほかにも「健康サンダル」・「安眠マクラ」・「低周波治療器」・「ツボ探知機」・「超音波マッサージ器」・・・などなど思い出すだけでも一苦労なクッズの教々があるのである。しかし、どこの家庭でもそうかと思うが、こうしたクッズが末長く愛用されるということはまず、ない。ブラサガリ健康器はいまや人目につかない場所でひっそりと生息し時々何を勘違いしたのか、洗濯物がブラサガっていたりする。歩行器やスキーマシンにいたっては今どこでどうしているのか、私は知らない。考えてみれぼ祖母が生きていた頃から我が家には不思議な飲物や食べ物が現れては消えていった。私は気味悪くて飲む気がしなかったが、祖母はよく「紅茶キノコ」を愛飲していた。何やら怪しげな浮遊物が浮かんでいる茶色の飲物だったが、あれを祖母はまるでペットか何かのように冷蔵庫の中で育て、日に何度もご機嫌をうかがい、挙げ句の果てに氷で割ったりして飲むのだった。その後、紅茶キノコを飲んで人が死んだというニュースが流れると祖母は掌を反し、呪いの言葉をつぶやきながら大事に育てた紅茶キノコを排水□に捨てていた。その後も「黒酢」・「ココア」・「きなこ牛乳」…、アホらしくて思い出す気もしない。 つまり健康好きは我が家の遺伝なのである。そしてこの私もみごとにそのDNAを受け継ぎ、次から次へと健康クッズが欲しくなる。『体脂肪計』もその中のひとつだが、これは何の努力も根気もいらないスグレモノだ。つまり自分の性別・身長などをインプットした体重計であると思えばわかりやすい。お風呂上がりにそっと乗ってみるのが正しい使い方でとても簡単だ。トコロガそこで私は恐ろしい真実に直面した。体重は標準なのに比べて私の体脂肪は『肥満』の域に入っているのだ。「まさか」と思った私は何度も体脂肪計に乗ったり降りたりしてみた。壊れてるんじゃないかと夕ニタのお客様サービスセンターに送り返してみたところ、「異常はありません。」というお墨付きをいただいて再び送り返されてきた。いよいよ現実は私に真実の姿を突きつけるのである。 「かくれ肥満」という隠密が世の中にいることは聞いていた。体重は問題ないにも拘らず、内臓にたっぷりと脂肪がつくタイプで分かり難い分タチが悪い。その上確かに最近私の体型の変化は著しく、今までならどんなに飲んでも(アルコールを)さほど気にもならなかったが、どうも近頃はカロリーを消費していないんじゃないかという危惧はあった。簡単に言えば私ってデブかもと思う瞬間は多々あったのだ。職業がら、似合うかどうかはさておき露出度の高い薄ものを着用することも多く、ヤバイよねコレって、としばしば感じていた自分をもうこれ以上ごまかすことはできない。いやあ、まいった。健康グッズは好きだが、運動が嫌いなのも私の弱点だった。『楽して痩せる方法』そんな素敵なものがあるはずもないことは重々承知の上、それでもあさましく「痩せるお茶」やら「キトサン・ダイエット錠」などを飲んでみるのだった。 そんな時だ。『悪魔のささやき』は。(いよいよ本日の本題に入るのである。)『補正下着』。彼女は自慢げに自分の成功例を語るのだった。子供を3人産んですっかり太ったので11キロのダイエットをした。すると自慢のバストがお臍の下くらいに下がったそうだ。(そんなこと現実に起こりうることなのか私は見てみたい。)そこでこの補正下着を着用するとあ〜らピックリお客さん、すっかり元にもどったアルヨ。と言ったかどうかはともかく、彼女は今やナイスバディなのである。おまけに彼女は私の二の腕をつまんで「フ〜ン。これはバストの脂肪が腕に流れてるのよ。ちゃんとした下着を着ければすぐに正しい位置に移動するから大丈夫。」その上彼女に言わせれば体中の脂肪は皆バストなのだそうだ。お腹も腕も足さえも皆バスト・・・何だか不気味な生物を想像してしまう。そう言いながら彼女は手早く私のあちこちのサイズをクルクルと手際よく計り、「あらら、体の割には手足が太いわ。」とか「手足のわりにはバストが足りないわ」とか堂々巡りの診断を下し、私を不幸のどん底に陥れた。しかし、しかしである。私の未来はこの下着さえ着ければバラ色なのだそうである。体中に移動した放蕩者の脂肪はいつの日か私の懇願に応えて一同バストの位置めざして旅立ち、そして一族結集の歓喜の時が必ずやって来るのだと。ここまで言われてこの補正下着を買わない女性がいたら会ってみたい。私は素直に契約書にサイン。たかが下着ごときに何なんだこの金額は!と亭主のいる人ならきっと激怒されるようなお支払いをしたのであった。(次回に続く) 1998年3月 続・涙の補整下着 さすが女性である。前回「補正下着」について書いたところ、「ホセイ下着とは『補整』であつて『補正』でほない」と御指示をいただいた。(さてはあんたも経験者だな。)そのほか各方面より予想以上の反響をいただいたので我ながらびっくりしている。中にはスケジュール表は読んだ事はないが、毎回あなたの文章を読むのが楽しみですなどと真面目な顔で言う人もいた。世の中うまく行かないものだ。その上男性には読んでほしくないと言ったにも拘らす、たいそう興味を持った男の方々が多く心配のあまり電話をかけてくる人までいる。その後下着の方はいかがですか?・・・知らない人が聞いたらセクハラである。また、別な親切な人はこうも言った。パンツなんか買うお金があったら英会話でも習えばいいのに・・・余計なお世話である。それに私が買ったのは「パンツ」などではない。「高級補整下着」だ。さて、本題に入ろう。 この下着はさすがにいい加減な気持ちで着用してはならないものなのだった。私に下着を売った彼女はインストラクターという肩書きを持ち、正確な着用方法を伝授してくれる。インストラクターは時々もっと偉い人の講習会に参加して更なる着用技術の習得に精進する、というシステムになつている。ちょうど私が着用法を教えてもらう頃この講習会をやっていて、どうせならもっと偉い人のお話を直にうかがおうということになったのだった。会場は東京駅前の、ある銀行のビルの上にあり、私は言われた通りエレベーターに乗り、それを降り、廊下を歩きドアを開けた。あの時の驚きを皆様にどうお伝えしたらよいだろう。ドアを開けるといきなり下着姿の女性が2人ずつ取っ組み合っているのである。その数およそ100人と言っても過言ではないだろう。広い会議室の長テーブルを後方に押しやり、空いた空間にゴザを敷くといういたってシンプルなシチュエ一ションで事は起こっていた。一瞬ここがどこなのか私の意識は遠のいていったが、まさかプロレス会場に来るはずもないので気を取り直して現実を見つめた。よく見ているとこの人々は皆インストラクターで2人一組になってひとりを客と見立て、着用法を実践しているのだった。彼女たちをリードすべくあるオバサン(と、どうしても呼びたくなってしまうタイブの人)はマイク片手にお立ち台代わりのテーブルに乗った太ったモデル(おまけにパンツー丁)の身体をギューギューと詰め込むように下着を着けてゆくのだった。オバサンは威勢よく「もっと気合いを入れて詰め込んでごらん!」とか「ここに体重をかけて!」とか叫ぶのである。下着を着けるのにこんなにも体力が必要だということを知らなかった私はすっかり怯えてしまい、立ちすくんでいた。するとオバサンは私を見学に来ているインストラクターの見習いかなにかと勘違いしたらしく、「ちょっとあんた、お客さんにはとにかく『きれいですね』って言ってあげるのよ、わかった?」と高いところから声をかけた。私も何故かその勢いに押されてうなずいていた。しかし私がお客さんなのである。 『闘魂』としか言いようのないこの力強いひとときが終わり会場に安堵の空気が漂うと、司会者らしき女性が(この人も下着姿だったと思う。)「“補整下着の神様”〇〇先生でした!!」とオバサンを示して声高く言い放った。オバサンは神様だったのだ!場内には割れるような拍手が鳴り響き、インストラクターたちは一斉に「ありがとうこざいました!!」と感謝した。解放感にあふれた場内の最後列に立ち、下着姿のインストラクターたちの後ろ姿を見ていた私はハッと息をのんだ。この大勢のインストラクターの誰として人様に自慢できる体型の女性がいないのである。中には国際基準を大幅にオ−バーしている人、万有引力の法則に素直に従い身体中が下降している人、その上補整下着には色気もそっけもない。機能を重視するあまりほとんど防具のようになっている。神様にいたっては大黒様のようにすら見える。私はとても暗い気持ちになって会場を後にした。 数日後、ダンボールが届いた。中にはおびただしい数の下着が各種入っている。これらは果たして私にバラ色の人生を約束するのだろうか?下着の中には一枚のメッセージカードが入っていた。“この下着を着けてもやせるわけではありません。” 1998年4月 涙の補整下着・完結編 このところ連載していた補整下着についての文献には予想以上の反響をいただいている。それも前回も申し上げた通り、男性読者からの反響が極めて多い。あきれたことである。だいたい興味のありかが実に不真面目なのだ。どんな下着をどこにどんな風に着用するのか具体的に知りたいとか、全く勝手な質問である。下着と言うからには頭にかぶるはずもなし、おおよそ見当はつくではないか?それにこの高級補整下着には大枚がかかっているので、そう簡単には教えたくないのが人情である。それでもなお知りたいならば自分で買って着用してみるべきだ。それはあまりにも恥ずかしいという人は妻とか恋人にプレゼントしてその後の効果のほどを追跡調査するのがよいと思う。しかし、心優しい私はひとつだけこっそりと教えてあげようかとも思う。それはこの下着は決して特別な形状をしているわけではないが、やはり正しい着用方法を実行しなければ何の役にも立たないということだ。 人間の脂肪というのは皮膚の下にジェル状に付着しているもので、うまくすれば移動する。例えぼ長い時間指に輪ゴムをしているとそこだけくっきりとへこんだりするものだが、言ってみればその応用編である。脂肪をあってほしい場所へ「こつちの水はあ〜まいぞ。」とばかりおびき寄せ、いつの間にかこつちの水に同化させてしまうという夢のような話なのである。だから必然的に背中の脂肪を無理矢理胸の方へ掻き集めて大急ぎでふたをしてしまうような着用技術が求められるのだ。これは胸だけの話ではない。下半身にも適応できることである。誰だって下へ下へとへりくだったヒップは好まない。やはり下半身は気高く、上昇志向を失ってはいけない。ところが、正しい着用方法をあなどってしまうことが時としてある。それは「忙しい時」である。あわてて身仕度を済ませ家を出るときなど、下着がとんでもない位置に移動してしまったりすることがある。だいたいそのことに気づくのが最寄り駅に着く頃である。ああ、しまった、と深く後悔するのだが、もともと急いでいるのだからどうにも処置のしようがない。そんな時私ならこうする。・・・アキレス腱のばし。足を前後に大きく踏み出して、あたかも健康のためにストレッチしているような爽やかさで、ずりおち気味の下半身用補整下着をキープする。自分がこうした善後策を取るようになってから駅で不思議な動作をしている人を見ると、ああ、あなたもですか、と思うようになった。駅でアキレス腱伸ばしをしている女性がいたら、それは十中八九補整下着の着用者である。それから最近では、駅のホームでゴルフの素振りの真似をしている人を見ても何かやむを得ない事情があるんじやないか、と心を配るようになった。人間は自分が体験することによって世界が広がるものだ。 ところで、実際の私の効果のほどだが、それは百聞は一見にしかず。である。この間は「ユキさんがこんなにスタイルがいいとは思いませんでした。」と言って帰ったお客さんがいた。思わなくて丁度である。ちなみに彼のもとへこのDMは送られていない。とりあえず着用している間は必死でプロポーションをキープしようという心意気がこの下着にはある。じゃあ脱いだらどうなんだ、と言うと今のところまだまだ元の木阿弥である。「私脱いでもすごいんです。」というCMがあったが、私の場合は現時点では「私脱いだらすごいんです。」である。すごいの意味はちょっと違うが・・・・当分「脱げない私」は続くであろう。しかし私はあきらめてはいない。いつの日かだまされたお人好しの脂肪はあるべき位置に移動するだろう。この連載を読んでいかにも私が怪しげな商売に引っかかっている、と決めつけた人もいたが、そういう人はマイナス志向である。そんな風に考えていると変な病気になるぞと思う。私はいくつになっても輝く明日を夢見ていたい。生きてるうちに何とかしたい。どうにかしたい。きっとどうにかなると思う。著しい効果が現れたとき、再び皆様にご報告いたします。(完) 1998年7月 ランドーさんのこと 今をさかのぼること8年ほど前、私が売れない歌手だった頃(そして今も引き続き売れない歌手なのである。何故か?いいものは変わらないからである。)来る仕事は決して断らなかった。あの頃はよくまがいもののようなライヴスポットに出ていた。当時はシャンソンがブームで「自称シャンソン歌手」というチミモウリョウとした人種がうじゃうじゃ歌っていた。もちろん、私もその中のひとりである。あの頃、「自称シャンソニエ」は数限りなくあったが、特に笑えるのが「じじみ亭」とか、「らら」だった。当然私はこの両方に出演していた。「しじみ亭」のオヤジは「自称もの書き」を自慢にいつも能書きをお客にたれ、威張りながらヘタクソな歌や手品を披露してお金を取っていた。そして「らら」は私を初めとする大勢のヘタクソな歌手がしょっちゅう歌詞を間違えながら狭い空間でお客の数を上回ってひしめき合っていた。そのうち、利口なお客は我々が出演している時間帯にはバッタリ来なくなった。その代わり我々が帰る深夜の11: 30になると待ってましたとばかりにやって来るのであった。この謎はすぐに解けた。「らら」の深夜の部はとても楽しいライヴ会場に変身するのである。何故なら深夜になるとミスター・ランドーがやってくるからである。 ミスター・ランドーは高原蘭堂と言って、日米ハーフのピアニストである。彼は8時から深夜まで同じ赤坂の大きなクラブで演奏し、深夜になると「らら」に移動し演奏した。ピアノの上にはシンセサイザーを2台乗せ、足でエレクトーンのベースみたいのを踏み、さながらそれは「ひとりオーケストラ」だった。お客は彼のオーケストラで、ある時は歌いある時は踊り、楽しい夜中のひとときを過ごすのだった。興が乗るとランドーさんはシンセサイザーが火を吹くまで演奏した。彼には火を吹こうが煙が上がろうが、関係ないことだった。何故なら彼は全盲だったからだ。 年のころは40代半ばだろうか、やはり全盲の妻と4人の子どもを持ち、埼玉の奥地に一戸建ての家を買って既にローンも済ませていると聞いた。白人系のハーフだからどことなく恰幅がよく、白い杖をつきながら歩く姿も妙に堂々としていた。いったいどうしてこんなに色々なことがわかるのか、と思うほど土地勘もよく機械にも強く、何よりどんなキーでも相手に合わせて弾いてくれる。どんな歌でも知っている。何でも弾ける。よく食べる。そしてとぼけた冗談も言う。 こんなランドーさんとわたしはある時から一緒に仕事をするようになった。彼が一方で出演している赤坂の大きなクラブで歌手を募集しているとのことで私ともう一人の歌手が「らら」から推薦されたのである。もう一人の歌手は目の見えないランドーさんに「譜面通りに弾いてください。」とか訳の分からないことを言ってさっそくクビになったとのことだった。私は重い譜面を運ぶ苦労が無くなって、羽根がはえたようにうれしかった。何せランドーさんの頭の中にはあらゆる曲が詰め込まれていて、題名を言うだけでちょうどいいキーで弾いてくれるのだった。お客はホステスさんと話すのに夢中なのでろくすっぽ歌など聞いていない。これ幸いと、私は覚えたての曲をどんどん弾いてもらって練習の場にした。私たちはとても仲良しになった。彼は私がリクエストをもらうと、知らない曲でも適当に歌うのでいつも大笑いしていた。思えばいい加減な仕事をしていたものだ。彼は仕事場に入るといつも「今日はどんな衣装を着てるの?」と聞いた。私が「白のワンピースよ。」と言えば「きれいだねえ。」と応える。「僕はネクタイにはうるさいんだ。」とも言っていたので、クリスマスにはネクタイをプレゼントした。ステージの合間の休憩時間になると、ランドーさんは私の肩にとまって、ふたりで赤坂の街へ出た。彼はケンタッキーフライドチキンが好きなのでいつもそこでお茶を飲み、世間話をした。お父さんは戦争が終わると国へ帰ってしまったらしく、ブティックや何やらを景気よく経営するお母さんと頭のいいお祖母さんに育てられたそうだ。子供の頃から強度の弱視で盲学校に通っていたが、その才能を見抜いた音楽の先生に導かれて早くからピアノを弾いていたらしい。「子供の頃は前衛音楽みたいなことをやっていたのに、お祖母さんは偉かったね。ウルサイなんて一言も言わなかった。」彼はとてものんびり話す。大人になってからのある日仕事を終えて街へ出ると、目の前がTVの画面みたいだったそうだ。「今日はずいぶん霧が出てますね。」と言う彼の言葉に仕事仲間は「霧なんて出てないよ。」それが彼の完全失明だったそうだ。そんなショッキングな話も彼はとてものんびり話す。思えば埼玉の奥地から毎日このゴミゴミした赤坂へきちんとやって来ることも不思議だったし、子供4人を全盲の妻とふたりだけで育てているということも不思議だった。けれど彼の様子を見ていると「目は見えないけど、普通と何ら変わりの無い人」という感じだった。(続) 1998年8月 続・ランドーさんのこと こうして不思議なピアニスト"ランドーさん"と私は1年ぐらい一緒に仕事をしただろうか。相変わらず私はいい加減な歌を歌い、ランドーさんは華麗に演奏をした。あふれ返るお客は演歌だろうとジャズだろうとかまわずリクエストした。最初のうちは「それは私のレパートリーにございませんので」などと丁寧に断っていたが、仮にリクエストにお応えしたとしてもリクエストした張本人がさっぱり聞いていなかったり、いつのまにか帰ってしまっていたりするので、私のいい加減さには拍車がかかり、まったく違う曲を「それではリクエストいただいた曲を歌います。」などと捏造して知らん顔をしていた。聞いたこともない曲のリクエストも恐くはなかった。その辺を歩いている「黒服」をつかまえてサビの部分だけでも教えてもらい、あとは勝手に節をつけたり歌詞をつけたりして歌った。ほとんどのお客はそれでもそんなものかと思って拍手したりしていたが、時にはいつまでもその曲が自分の知っている正式な形で歌われるのを待っているお人好しもいた。しかし、私もランドーさんもこうしたクラブでは何故か「先生」と呼ばれる身分なので誰も素朴な疑問を口にすることはなかった。「先生」のすることに間違いがあろうはずがないと思われているのだった。いい時代だった。 ランドーさんと私がこうした仕事をしていた当時は、今思えばまさにバブルの末期だった。ここで見るものは私にとって何もかも新鮮だった。へんてこりんなシャンソニエしか出たこののなかった私はこんなに大勢の人間の働いている「社交場」は見たことがなかった。まず「黒服」と呼ばれる男達。タキシードを着て一見ホテルマンのようにも見えるが、どうしてこれが妙な人種で、パンチパーマにガニ股、チョコチョコと忙しそうに店内を歩き回り、大げさな身振りでお客の煙草に火をつけ、常連の寒い冗談にもよく笑い、あれよこれよとせわしない。「へんなやつら」と私は思っていたが、なかなかどうして話してみると気骨のある親父が多く、せわしないのはホステスさんたちをあちこちの客席になるべく均等に移動させ、会話を飽きさせないように、そしてホステスさんが入れ替わるたびに彼女達のための飲み物の追加オーダーが取れるようにしているのだった。ホステスさんは20才台の美人が多く、役者の卵やダンサーやらのアルバイトが多かった。多いときには4,50人いた。いわゆるプロのホステスは数人しか居なかったが、その人たちは何故か着物を着て頭を高く結い上げていた。私の観察ではどうも古株になるほどその頭が大きくなる。言ってみればシェフの帽子と同じことだ。ホステス御用達の美容院があるそうで、毎日出掛けに寄ってから出勤するのだ。その頭でお客と食事などしてから同伴出勤する場合もある。しかし私が男だったらあんな頭の女と食事するのは塩沢トキを連れているようで少し気が引ける。 あの頃の客種は何といっても不動産業者と証券マンだろう。座っただけで5万くらい取られるクラブに大勢でやってきて、「乾杯」しただけで帰る姿もずいぶん見た。ところが水が引くように急速にお客の数が減り、ホステスさんたちがヒマそうにソファーで待機しているようになった。経済が大幅に傾いてきたのである。そうなってくるとまずリストラされるのが、そう、この私だ。お客が聞いてもいない歌を歌わせておくのはもちろん経費の無駄である。ランドーさんは本当に申し訳なさそうに私に解雇伝達をした。「また何処かで一緒に仕事しようね。」そう言って私たちは別れた。 それから何年か後、時代の流れには逆らえずランドーさんが失職しているという話を聞いた。何せ自由に何処へでも出かけられる身ではないので、レギュラーの仕事を失うことが彼にとってどんなに大変なことか想像に難くない。それにランドーさんには全盲の妻と4人の子供がいた。しかし、時代はますます厳しくなっていた。 そしてそれからまた何年かたった今年の3月、突然ランドーさんから電話があった。今は「友達の紹介で慣れた赤坂でピアノを弾いている。昔に比べたら大した仕事ではないけど。」と言い、「実はね、最近カラオケでお客さんが歌えるような曲を作ってるんだよ。カミさんは文章がうまいんで歌詞をつけてもらってるんだが、文と詞ではどうも違うらしくていい歌詞がつかないんだ。」「そこでね、昔ユキちゃんがお客さんからリクエストをもらうと、知らない曲でも口から出任せの歌詞を即興で付けて歌ってたことを思い出してね。」・・・何が幸いするかわからないのである。(続) 1998年9月 再・ランドーさんのこと ランドーさんも今や50才を過ぎ、このせちがらい世の中でいつまでピアノを弾くために盛場へ出かけて行くんだろう、と思ったらしい.音楽は自分自身と一心同体だから止めるつもりはない。それにもちろん仕事はやり続けなければならない。ならばどうしたらいいだろうか、と。ランドーさんには誰も真似できない耳の良さがあった。いったい今まで何曲の流行り歌聞き覚え、お客のために弾いてきただろうか。ヒット曲がヒットする理由も法則も無意識のうちに体に沁み込んでいるはずだ。そこでランドーさんは曲作りに乗り出したというわけだ。ランドートさんの曲はポップで、それでいてちょいとばかり日本人の体質に訴えるような懐かしさもある。いい詞がつけばきっと皆が歌いた<なるような曲だ。ランドーさんはテープに吹き込んだ”打ち込み”(コンピューターで作成する力ラオケ・オ−ケストラ演奏と同じことを機械ひとつでやってしまう。カラオケのほとんどがこの方法でできている。)の曲を私に送ってくれる。私はそのテープを何度も何度も流して曲から受けるイメージを詞にするのである。どうも私にはカラオケで歌う人種はサラリーマンとOLというイメージが強いらしく、とりあえず社内恋愛だの社内不倫だのといった内容になってしまうのが今のところの実情だ。その上私にはOLの経験が無いわけだから、登場人物には何だかいい加減な女が出てきてしまうのである。その中のひとつである社内不倫の歌詞を読んだ主婦(50代)は「虫唾が走る」と言ったそうだ。さもありなん!である。 歌詞が付いたところで今度はデモ・テープを作成する。久しぶりに持ち合わせたランドーさんは少しお腹が出て、少し頭が後退していたが、相変わらずのんびりしていた。.二人で昼間の赤坂を歩き、ランドーさんが今ピアノを弾いてている小さなクラブの鍵を開け、そこの録音装置をセットしてランドーさんの打ち込みに合わせて私が歌い、それを録音するのである。録音テープはランドーさんによってしかるべきスジヘ渡される。使いものになるかどうか判断されるのである。今のところデモ・テープの行く末はウンでもスンでもない。私の詞があんまり変だからである。自分でもそれが分かっているので、私はこの類の流行歌(になればいいなあ、と思っているもの)を書くときは自分を鼓舞する意味でも「竹下ユキ」の上を行って「松下フブキ」というペンネームを使うことにした。ランドーさんはあきれていたけれど‥.しかし近い将来しかるべき歌手(私は歌うつもりはない。)が歌う曲がヒットしてそこに「作詞・松下フブキ」と書いてあったらそれは紛れもなくこの私なのである。 録音が終わるとランドーさんは一冊の本を手渡し、「これ、カミサンが自費出版した本なんだけど、読んでやってくれる?」と言った。その本には「翼を折らないで」という題があった。手頃な量の文章なので仕事へ行く電車の中でたちまち読んでしまった。全盲の妻が結婚し、子供を産み、親兄弟の助けも得られない都会で子育てをする。誰もが当たり前にやつていることが、彼女にとっては全て壁なのである。第一子供の顔さえ彼女は知らない。どうやってミルクを飲ませるのか。機嫌が悪いときの不安。次から次へと恐怖は襲ってくる。この本の中で奥さんの光子さんは「飛鳥」、ランドーさんは「純一」という名前で登場する。街角で盲人を見かけることは多々あるけれどこういう苦労をしているのかということはまったく想像できなかった。驚きと、そして文章の上手さに私はすっかり夢中になった。その上、この本には力強さと明るさが終始流れている。幸い4人の子供は全員目が見えて、現在、彼女らの4つの目になっているようだが、障害者が自ら、それも文章として完成度の高い作品を書くということは滅多にない。翌日さっそくランドーさんに電話をかけて素晴らしい本だった旨を伝えた。するとランドーさんは「ちょっと待って。今言ったことをそのまま話してやって。」と言うと奥さんを大声で呼んだ。初めて奥さんと話をして私は自分のできることが見えた。自費出版にはマーケットに限りがある。ならば人から人へ伝えて行くしかないのだ。そしてそのうちこの本は独り歩きするだろう。私がランドーさんに出会った意味も、不思議だと思っていたことの数々もこの本によって全てひとつになったように思えた。 というわけで、私とランドーさんのつきあいはまだまだ続くのである。「松下フブキ」も世の中に出さなければならない。そしてとりあえずただ今私は奥さんの本の代理販売もしているのである。私のコンサートでは必ず売る。注文も受ける。これを読んだあなたも是非注文してください!! 高原光子 著 『翼を折らないで』 ¥1,000 お申し込みは03-3932-6371 (キリエ・カンパニー:竹下ユキ) 1998年10月 入院 ご報告記 「痛い」と「痒い」はどっちがつらいか、などど酒の肴に話したことはあったが、このたび「痛い」ほうに軍配が上がると確信した私なのであった。事の次第は8月22日土曜日の昼下がりに始まる。 いつものように呑気にお昼寝をしていると突然右下腹部に痛みを感じ、目覚まし時計も無しに目覚めた私は「これはよく聞く『盲腸炎』の症状である」と冷静に判断を下し、近所の医者を往診に呼んだ。医者は何の診察道具も持たずにさっそく現れ、足首を持って引っ張ったり縮めたりしていたが、仕舞いには「立ち上がってケンケンしてみてください。」などと言った。イテテテと連発している私をよそに医者は「盲腸かどうかはわかりません。胃薬でも飲んでみてください。」と隣のオバサンでも言えるようなことを言って帰って行った。それでも素直な私は大量に市販の胃薬を飲み、多少楽になったわなどと本気で思って仕事に出かけたのであった。仕事場に行けば当然ながらミュージシャンが居るのだが、この人たちの気質というのが何と言おう一種独特で、どんなことでも笑い話やダジャレに発展させようと待ち構えている人種なので、もちろん私の『盲腸の疑い』の話はどこか遠くへ旅立ってまったく違う形で帰ってくるのだった。「ああ、こんな人たちに相談しなければよかった。」といつも思うのだが、やはり不安がなせるワザか、解答の出ない空しい相談を持ちかけてしまうのだ。翌日も全く同じことだった。 しかし、それに比べて私の身体は正直でなおかつ誠実だった。痛みは次第に増し、その上熱まで出すのである。痛みのため歩みののろい私は終電に乗り遅れ、事の重大さを認識した。 そして救急車は華々しくサイレンを鳴らしながら夜の街を走るのだった。「ああ、どんな時でも派手なことは素晴らしい。」と感激しながら病院に運ばれた私には、しかし入院どころではない重大な問題が待ち構えていた。正にその当日『北海道一週間公演』へ旅立たなければならないのだ。私はイテテテと言いながら真暗な病院のロビーから北海道へ電話をかけ、事の一部始終を話した。こんな時こそその人間の本質が見えると私は今静かに思う。電話の相手はパニックに陥り、「注射でも打ってやって来るか、今晩中にトラ(代投)を探せっ!!」とわめいている。非常識にも夜中の3時に堂々と同業者に片っ端から電話をしたが、今日の今日はるか彼の地ヘ一週間も出かけるなどということは親が死にでもしない限り誰だってできない。呆然とした私はたちまち開き直ってトラ探しを放棄した。そうこうする間に盲腸は破れて腹膜炎となり、さっそく手術。こんな時こそ人間関係の本質が見えると今私は再び思う。大手術だというのに家族は誰も来なかった。だから取り出された私の盲腸は誰にも確認されずにゴミ箱へ捨てられたのである。こんなめに会いながらも私は雑草のように逞しく入院生活を満喫し、北海道も東京も何事もなかったように涼しい風が吹いていた。久しぶりに暇なものだから病院から毎月のスケジュールを送り、その上さりげなく入院情報を添えてみた。その反応やいかに、と家の留守電を聞けば何と「おくやみ申し上げます。」などというメッセージが入っている。恐るべし。どこまでも手強いやつがいるものだ。 私の眉毛のない素顔に感動したのだろう。医者はあっさり退院させてくれた。シャバに出るのは大層嬉しく、止めたほうがいいと言われた退院直後のコンサートの仕事もやることにした。退院当日の真夜中幸せな私は『帰ってまいりました。 生還!怪奇祝!!病み上がりコンサート』と書いたちらしを作って、コンサートに来てくれそうなお客さんの会社に機嫌よくガンガンFAXした。そして、「翌朝これを見たらきっと元気よく仕事ができるだろうなあ」とひとりほくそ笑んでいた。ところが、である。翌日になると、意外にも「あんなものを会社に送るな」とか、「部署が変わったんで会社中をあのFAXがくるくる回ったではないか。恥ずかしい。」とか、苦情の電話が相次ぐのであった。親の心子知らず、である。それでも仕方なくコンサートには多くの人が来てくれて私は「たまには病気もするもんだなあ。」と感激した。中には早く元気になるようにと、怪しげなヘビの粉をくれる人もいた。朝晩それを服用しているせいか、最近は二枚舌になつている。(ウソウソ) 幸いその後も何とか歌うことができ、自分の幸運に感謝しているのだが、若い若いと思っていてもやはり肉体は確実に老いているんだということを実感した夏であった。香典返しのCD制作なんて言っていたことが実現しないようにせねば。しかし、お腹にアミダ状の傷を作ってしまった以上もはや嫁に行くこともないだろうし、まだまだ私は歌うのである。あなたの会社に怪しいチラシがFAXされることがないとは言い切れない。御用心なされ。 | |||