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竹下ユキ
エッセイ2005


2005年1月
2004年。お宅にこれは来ましたか?

2005年2月
スポーツの冬。

2005年3月
続・スポーツの冬。

2005年4月
続々・スポーツの冬(に春は来るのか)

2005年5月
いよいよ作家なのか?? という話。

2005年6月
私にとっての銀パリ

2005年8月
夏の日の出来事

2005年10月
秋は美しい。秋になりたい。

2005年11月
美しい季節のセプテンバーソング

2005年12月
竹下ユキ 魔女説

最新エッセイ
2005年1月

2004年。お宅にこれは来ましたか?
 右の葉書をご覧いただきたい。最近老人が馬鹿馬鹿しい詐欺のターゲットにされるのを聞くにつけ何と心無いことよと思っていたし、しかしそんなに間単に騙されてしまうのも情けないもんだとも思っていた。

text  そして昨年の11月12日に右の葉書は私のところへ来た。誓っていうが私は真面目の上に2文字がくっつくほど真面目である。未だかつて公共料金を滞納したり、ミュージシャンのギャラを出し渋ったりしたことは誓ってない。なので、この葉書には心底驚いた。さっそくご連絡先に電話を掛け、いったいいつこの私がそんな不名誉なことをしたのか質問した。電話に出たのは何の根拠もないが大学の法科を出た感じの30歳くらいの男性で、大変丁寧で親切な応答である。声もいい。

 私は葉書に書いてあるお客様管理コードナンバーを言い、ついでに聞かれるがままに携帯電話の番号を告げた。すると彼はデータを調べ私が昨年の11月に携帯電話を使い、いわゆるダイヤルQ2を利用して何かを検索し、その料金が未納だと教えてくれた。

 そうか。それはそれは私としたことが、申し訳なかった。しかし、私は携帯電話でものを検索するなんてことはしたことないし、その方法も知らないと告げると、「確かに。お客様の利用時間は7秒間です。通常このような短時間の利用というのは考えにくいです。」と言う。ではこの請求は無効であろう、と言うと「そうではありません。理由はわかりませんが使用したことに変わりはないので支払いの義務があります。」

 なるほど。確かに理由の分からないことは世の中に結構ある。その手の間違いなのだろう。それにしても、支払い期限が今日までというのはやけに急がしい。今まで請求書が来た覚えはないし。すると彼は「請求は携帯電話にお掛けしています。今年4回請求の電話をしています。」と。

 そんな電話が来た覚えもないと告げると、「それはお客様が電話に出なかったからです。お客様の責任です。電話会社はシステム上留守電に残すということはしないので電話に出ないお客様の落ち度です。」

 そうだったのか。で、いったい料金は?「お客様の場合1年間滞納していますので2000円の使用料に利子がつきまして支払い額は36万円になっております。」36万?あんたいくら何でもそんなバカな。「いえ、事実です。しかしご安心ください。お客様の利用時間7秒間というのは何かの間違いです。私どもは電話会社とお客様の間を円滑にするための会社です。こちらにはこうしたトラブルに対応する弁護士がきちんと居ります。で、その手続きも済んでおります。今回は1万2千円だけで大丈夫です。」

 そうだったのか。いやはやよかった。不幸中の幸いとはこのことだ。じゃあ、支払いはどうやって?「はい。ではこれから銀行へ行って、まず36万振り込んでください。それが確認できたら1時間後に1万2千円を差し引いた額をお客様の口座に振り込みます。くれぐれも締め切りは今日銀行が開いている時間までですからね。」

 そうか。それは急がねば。で、いったいどこへ振り込むのかと聞けば「それは言えません。これからどこでもいいので銀行へ行って、その場所から携帯電話でここへもう一度連絡をください。その時お教えします。」

 ここまで来て私はやっと気づくのである。ウソのようだが本当だ。話相手は立派なサギ氏じゃあなかろうか!!一週間後、友達のピアニストの家に行くと「やっとうちにも来たよ。このハガキ。面白いから取ってあるのよ〜。」と言って、まったく同じハガキを見せてくれた。よく見るとお客様管理コードナンバーまでしっかり同じであった。ちょっとサギ氏!!あんたよくも真面目な私を騙したな。あんたの歌、絶対書いてやる!!

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2005年2月

スポーツの冬。
 人間も動物だから、寒い季節は身を守るために体内に脂肪をためるらしい。私は中年になってから(と、自分で白状するところが素直で好感が持てる。)極めて体脂肪率の高い体質になり、見た目以上に肥満であることが判明。春頃通ったヒップホップダンス教室は閉鎖されたので全く運動不足だったし、このまま行くと水にはよく浮くが歩行困難な方向へ向かうのが目に見えていた。で、この際エステだ補整下着だ占いだ、などという他力本願は一切やめて自ら運動することに決めた。決めたのは昨年の夏で、後楽園にある大型スポーツクラブの会員になった。ところが会費を払うとすっかり安心してしまいなかなか出かけて行く気にならない。しかし、会員になっただけで体脂肪は減らないということにやっと気づき、今年は一念発起。大いに運動することにした。冬の間にシェイプアップして薄着の季節も堂々と青空の下を歩こう、という寸法である。

 私の身分は平日昼間会員というもので、これは平日の朝から夕方までクラブを使用できる。この時間帯にクラブに現れる人種は3種類。「専業主婦」「リタイア後の男性」「運動不足の歌手」である。どう考えても命がけでトレーニングする人種ではない。さて、スポーツクラブというとマシンの数々があってもくもくと歩いたりバーベルを上げたりすると思われるが、私が見る限りではマシンの人気はそこそこで、むしろ2つのスタジオで交互に組まれるレッスンものに人気が集中している。これを専門用語でエクササイズという。エクササイズにはお馴染みのエアロビクスを始め、ジャズダンス、ラテンダンス、フラダンス、ヒップホップ、太極拳、ヨガ、青竹踏み、腰痛体操などというものもある。ボールや昇降台を使った運動も人気がある。

 プログラムをもらって目ぼしいクラスに的を絞って出かけて行くが、どういうわけかいつも2分くらい遅刻する。すると、何と言い訳しようとスタジオには入れてもらえない。いくらお願いしても無理である。スタジオの扉は硬く閉ざされてしまう。しかしスタジオはガラス張りだから中の様子がしっかり見えてますます悔しい。ならば余裕を持って出かければいいものをそれはどうしても難しい。というわけで、希望のクラスを諦めてもう一つのスタジオでこれから始まる別のクラスに参加することにする。「青竹踏み」。100円ショップで売っているようなプラスティック制の青竹もどきを借りて、その上をインストラクターの掛け声に合わせて乗ったり降りたりする。ああ、老人ホームのリハビリってこんな感じなんだろうなあ、と思いながら青竹を踏む。足は暖まるが全然汗はかかない。

 別の日。ジャズダンスのクラスは午前中だが、勇気を出して早起きし出かけていく。インストラクターはどこぞのバレエ団の女性らしくほっそりと可愛らしい。大阪弁もご愛嬌だ。「ここは遊びやからね。できなくても気にせんで。飽きたらマシンに行ってもええし。」ととても素人思い。遊びやからと基本練習は適当に終えて、じゃあ「振り」に行くで。するといきなり暗黒舞踏みたいな振り付けである。両手で虫をつかまえるんや。そうするとそれがゴムみたいに伸びて、そうそう。そこでターンしてトントントンや。遊んでるのはインストラクターの方らしい。

 別の日。やはり目当てのクラスに遅刻したので別のクラスに入ってみる。レップリーボックと言って、カマボコ板の親分みたいな昇降台と鉄アレーやバーベルなどの重いものを使ってエクササイズする。インストラクターは小柄な女性だが、筋肉隆々でタンスのひとつやふたつ担げるタイプ。そう若くはない。引き締まったボディは見事だが、あんな身体になってドレスを着たらオカマショーになってしまうだろう。歌手としてはちょっと危険。それにしてもこのクラスはしんどい。日々重い譜面を自分で運んでいる身としては、何で仕事でもないのにこんな重いものを持ち上げたりしなければならないのか、と思うと腹が立ってくる。その上インストラクターは大音量でかかっている音楽に合わせてインカムマイクで歌うのだった。その歌はビブラートが過剰に掛かり、音程もかなりずれている。発狂しそうになる。

 別の日。少々経験のあるヒップホップのクラスに出る。若いインストラクターはレッスン中に次の振りをゆっくり考えるので、それを待っている間次第に身体が冷えてくる。しかしどうしてスポーツクラブの音楽はこうも大音量なのだろう。マイクを使っているのにインストラクターの声がかき消されて何を言っているのかまったく分からない。耳も痛い。

 エクササイズに少々疲れたので、この際マシントレーニングしてみよう、ということで初めてエアロバイク(座椅子にペダルがついたようなもの。本を読みながらこげる。)に乗ってみた。(続)。

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2005年3月

続・スポーツの冬。
 さて、スポーツクラブのマシンには、重量挙げのような重いものを持ち上げたり引き下ろしたりするもの(無酸素運動)と、歩いたり自転車を漕いだりするもの(有酸素運動)がある。無酸素運動が過ぎると逆三角形のマッチョな体型になる。それに比べて有酸素運動は体内の脂肪燃焼のために役立ち、マラソン選手のように細くしなやかな針金のような身体も夢ではない。言うまでもなく、私は有酸素運動希望である。いまさらマッチョになっても何の足しにもならないし、それでなくても私は少年体型なので、これが発展してオッサン体型になったら大変なことである。願わくば肩甲骨がくっきり見えるような華奢な背中がよい。それで背中の大きく開いたドレスなんかを着たらどんなにいいだろう。常時客席に背を向けて歌いたい気分。

 有酸素運動マシンにはただただ歩くベルトコンベアや自転車、ステッパーなどがあるが、どれも同じことを延々とやっていなければならない。だいたい有酸素運動は20分以上続けなければ意味がないと言われている。私の行っているクラブは大型なのでマシンの数も豊富で十分だが、所詮何をやっても飽きたらおしまいだ。もくもくとトレーニングする間に退屈しないことが最大のポイントだろう。もちろんイヤホンをつけて音楽を聴くこともできるが、流れてくる音楽番組のジャンルは演歌・歌謡曲・ジャズ・クラシック・R&B・ヒップホップなど月並みなのですぐに飽きてしまう。こういう所でこそ落語や朗読を配信すべきではないかと思う。

 ところが自転車よりも丈が低く、背もたれまでついて何やら楽そうなマシンがある。リクライニングシートにペダルが付いている、とでも考えたらいいだろう。これに好みの回転数を入力し、脈拍を測る小さな計器を耳につけていざGO!だ。このマシンの最大の魅力は上半身が揺れないのでゆっくり雑誌や本を読める、という点にある。面白い本でも持参すれば1時間くらい難なく漕げてしまう。その上10分くらいすると無意識のうちにサラサラと汗が流れ始め、ああ、私は今運動をしているらしい。ということに気づくのである。こんな有難い話があるだろうか。棚からボタモチである。

その上、マシンを降りるときには(最高1時間で自然にストップする)液晶画面に、いったい私が何キロカロリーを消費して、それはご飯何杯分に相当するのか、という表示まで出る。と同時にそのご飯の量は他の食品に換算するとどの位のものなのか、というのもイラストで表示される。しかし、この時ふつふつと疑問が沸いてきた。ご飯何杯分と言われても、果たしてそれはどういうことなのか。これだけ運動したんだからその分ご飯を食べていいということなのか、それともご飯分だけ痩せたよ、ということなのか。その上、ご飯相当の食品というのがいつも変なのである。ある時は「ししゃも3匹」。ある時は「まぐろの握り2つ」。それもイラスト入りだ。だいたいこんなメニューが何の目安になるのだろう。居酒屋じゃあるまいし。ししゃも3匹は食べないほうがいいのか、でもやっぱり健康のために食べたほうがいいのか。ある時、近くのマシンで同じように漕いでいた女性にこのことを聞いてみると、彼女の画面には「ソフトクリーム1ケ」「ショートケーキ1つ」などと表示されるそうである。何故私がししゃもで彼女がケーキなのか。好物を入力しているわけでもないのにどうしてこういう違いが出るのだろう。おまけに有識者に聞くところ、サラサラかく汗はむくみの解消にはなっても脂肪燃焼にはさほどの効力はないとか。やはり全身くまなく動かして内側から汗をかかなければいけないらしい。

 仕方ないので再びエクササイズのスタジオに挑戦。以前から興味があったラテンのクラスに参加する。スポーツクラブの会員の一つの特徴として「一日中クラブで過ごす人」と「決まったクラスに住所のある人」というのがあるらしい。一日中過ごす人は、インストラクターとタメ口をきくのですぐ分かる。すっかり痩せこけるまでトレーニングに励む人ももちろん居るが、中には明らかに暇つぶしに来てるな、という人もいる。次に決まったクラスに住所のある人というのは、クラスの牢名主とでも言おうか。スポーツクラブのクラスは誰でも参加できるオープン教室なのでほとんどが気楽なスポーツウエアで参加するのだが、住所のある人たちは衣装を付けて登場する。ラテンはラテン用ドレス。フラダンスはムームー着用で髪にはハイビスカス。そしてインストラクターに一番近い前列の大鏡の前に居を構える。お仲間がいる場合はお仲間の分まで場所取りをする。この傾向はどこのクラブにもあるらしく、私のクラブはむしろ少ないらしい。しかし、更衣室で髪に大きなハイビスカスを付けて派手なお化粧をした人とすれ違った時には心底びっくりした。まるでシャンソンコンサートの楽屋さながらである。(続)

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2006年4月

続々・スポーツの冬(に春は来るのか)
 いくたびめげそうになりながら、私のスポーツクラブ通いは続いている。楽しいクラスが見つかったのである。「初級エアロビクス」。初級と言う割には、私にとってはもう十分というくらい動かなければならないレッスン内容で確かに辛いが、インストラクターが30秒に1回言う冗談が実に面白く、笑っている間に1時間経つのが気に入った。いかにも体育大学を出ました、というような男性インストラクターで、顔色ひとつ変えずに号令にさり気なく混ぜる異様な掛け声といい、できない生徒たちをちっとも励まさない遠慮のなさといい、クールなコメディアンである。

 中年女性に人気も高く、スタジオ内で自分の住所を決めている人も多いので決して彼の傍には近づけない。一人当たりの地所も狭いから彼の頭しか見えない。しかし、それでもこれだけ笑えるなら全くお得である。やはり人間は笑わないと。この間は息せき切ってレッスンに間に合ったのに代講の先生だったのでちょっとがっかりした。笑わずに身体だけ動かしていてもカロリーは消費しにくい。というのが私の学説である。

 しかし、インストラクターという職業は本当に重労働だ。相手は荷の重い中高年だから難しければ文句を言うし、簡単だとあなどられる。常に低姿勢で笑顔忘れず、重たい人種を引っ張っていかなければならない。中には顔が元に戻らないんじゃないかと心配するくらい笑顔を作っている人もいる。掛け声は声が枯れるほど大声である。どんなに自分の体調が悪くてもダラダラできないし、ましてや貧血を起こして倒れるわけにはいかない。動きをデモンストレーションした後でもう一度皆さんとご一緒に動くのだから都合生徒の2倍の運動をしていることになる。そんな1時間を一日に何度もやっているのだ。いったい「ししゃも」何匹分のカロリーを消費しているんだろう。それに生徒をお客様として扱うあのサービス精神が素晴らしい。これがもし音楽業界だったら、一たび弟子でも取ろうものならお金をいただきながら急に家元風になる危険性もある。自分の身体を酷使しつつ人に思いやりを持つ、尊敬すべきプロフェッショナルである。

 そうそう。先日はついでに腰痛体操というクラスに出てみてビックリ。このクラスはタイトルに相応しく生徒の年齢層はすこぶる高い。足元の危ない人も多い。どういうわけかお爺さんばかりで、ここはスポーツクラブだったかリハビリセンターだったか錯覚を起こすくらい危なげである。インストラクターはクラブの従業員の人が受け付け業務の合間にこなす。とにかく動きはゆっくりだ。それでも動きが左右逆になっている人もいる。マットを敷いてストレッチする時に驚いたのは、確かにインストラクターは今「マットの上に起き上がってください」、と言っているのに言いつけを守る人はごくわずかで、寝転がったままの人や左右に転がってみてる人、ひどい人になると寝たまま足を上げて両足の間から遠く天井を眺めている人までいる。これじゃインストラクターも悲しいだろう。因果な商売である。

 それで私の体脂肪はどうなったか、と言うと何と嬉しいことに3%ほどは落ちたのである。とは言え夜中の飲食が2日も続けばまた元の木阿弥だ。しかし「初級エアロ」で笑いながら動けばまた体脂肪は落ちることが分かったので、罪の意識に苛まれることなく堂々と夜更かしができる。
あとウエストが4センチ縮まったら着ることができるドレスも買ってあるので、それを励みに部屋につるして心理作戦もバッチリである。これから春を迎えるに当たり、ビールの美味しい季節が巡ってくるが、その誘惑に勝てるかどうか、そこに私の人生後半に春が巡ってくるかどうかのカギが隠されているというわけだ。(終)

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2005年5月

いよいよ作家なのか?? という話。
 怖いもの知らずという言葉がある。これは、無知ゆえに世間の恐れるものにいとも簡単に手を出してしまうことを指していると思う。もちろんそれか逆によい効果を生む場合もあるし、案の定恐ろしい結果になることもある。

 実は何とこの私に原稿依頼がきたのである。依頼してくださった奇特な方は医学雑誌の編集長で、何度か私のステージも見、ホームページに掲載されている駄文の数々(60作を超えているので、本当に数々なのである)を読んだ上で、もしかしたら文章を書くのが好きなのではないか、と思ったらしい。これがまず怖いもの知らずである。何故なら、私はどこまでもおだてに乗りやすい。いやそれは困ります。などと遠慮したりは絶対にしないので、頼んだが最後頼んだことを撤回するわけにはいかない。参考までにいただいたその医学雑誌は、私などには外国語としか思えない不思議なことが書かれていて、逆さまに渡されたらそのまま読むだろう、というくらい私の人生に無関係なものだった。恐らく学者の話だけでは肩がこるので部外者にも原稿依頼をしているのだろう。

 その上同時に依頼されている人のリストの中に、超有名作家「村松具視」さんの名前があるのを私は見逃さなかった。ああ、いよいよ私に原稿依頼が来た!!世の中は捨てたもんじゃない。おまけに昼寝の次くらいに簡単な作文で原稿料までいただけるとか。生きててよかった!!これが歌だったらこうはいかない。何だかんだと仕事のクライアントはギャラを値切ろうとするし、準備をいくらしても当日の会場の雰囲気で乗り切れないこともある。ところが原稿というのは、衣装も要らず、時間も気にせず、最近凝っている焼酎のお湯割りなんかを飲みながらスッピンのままパソコンに向かいさえすれば出来上がるのである。間違えたら削除してキーボードを叩き直せばよい。歌だったら一度間違えたらそれっきりである。消しゴムで消すことはできない。人前で間違えた自分をさらし続けなければならない。まるで地獄と極楽である。

 というわけで私は気軽にパソコンに向かった。頂戴したお題は「私の銀巴里」。ご存知のとおり、銀巴里というのは、今を去ること15年前に長い歴史を閉じた、銀座にあった言わば昭和の文化の象徴的シャンソン喫茶で、毎晩シャンソン歌手の歌を大変な安価で聴くことのできるライヴハウスのことだ。美輪明宏さんだとか、戸川昌子さん、金子由香利さん、クミコさんなどが出演していたことで有名。実は私もこの銀巴里には最後の半年くらい出演していた。ところが、ここ特有の厳しい公開オーディションをかいくぐって出演権を得たはいいが、その半年後には店は閉店の憂き目に合い、私の20代の夢だった銀巴里歌手の座はあっけなく水の泡となり、キャリアも名前も無いままに路上に放り出された恨みがあり、確かに銀巴里歌手ではあったのだが、あまりにあっさり夢が消えたので銀巴里について語れるほどの経験はないのだった。しかし依頼者はそれでも構わないと言う。で、どう考えても懐かしいとか、そこが私の青春でしたとは言えないが、とりあえず私なりに80年代バブル期のシャンソン・ブームと絡めて、銀巴里への思いを綴った。

 気楽に書いて気楽に原稿を送ると、忘れたころにゲラ(校正)というものが郵送されて来た。見ると原稿はあちこち書き直されていて、中には言っていないことも書かれていた。予想しない段落わけもあり、やはり私はまったくの素人なのだということに気づくのだった。なるほど、世の中の文章というのは随分改ざんされているんだな、ということも知った。しかし、流石に思ってもいないことが加えられていた箇所は元に戻してもらうようにお願いしたが、全体的に整然と整った綺麗な文章を眺めていると、とても自分の書いたものとは思えなかった。まさか、村松具視さんの作品にはこんな筆を入れたりはしないのだろうが、聞くところによると編集者には作家志望、あるいは、現に作家の方も多いらしく、素人の文章にはプロの手が加えられることもあると言う。なるほど。怖いもの知らずは私の方だったようである。

 しかし、その後雑誌が出版されたという噂も聞かず、もしかしたら書き直しても使い物にならない文章は何時の間にか無かったことになったのかもしれない。そう言えば自分の作品に行き詰まって自殺する作家はいても、自分の歌のことを気に病んで自殺した歌手の話は聞いたことがない。やはり歌手の方が断然お気楽なんだろう。しかしせっかくなので次回はその幻の原稿のオリジナル版を皆様にこっそりお見せしましょう。レアもの、ということでお楽しみに!!)

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2005年6月

私にとっての銀巴里
医学雑誌「遥か」に掲載されたエッセイです。少々長くなりましたが、これが噂の(?) 初めて原稿料をいただいた作品のオリジナル原稿です。

 銀巴里というシャンソン喫茶が銀座にあって、そして10数年前にその40年の歴史を閉じて消えてしまったという話は、青春時代にここへ通ってシャンソンの洗礼を受けたという方も多いのでよく知られているかもしれない。あるいは、このシャンソン喫茶から美輪明宏さんだの、戸川昌子さんだの、金子由香利さんなどの有名人が生まれ、そして最後までこのシャンソニエ(シャンソンを聞ける店)を見守っていたこととか、最近ではクミコさんという銀巴里出身歌手が注目を浴びたりしていることを知っている方も多いだろう。つまり、銀巴里は小さな音楽喫茶だったにも関わらず、人々の記憶の片隅に残っていたり、あるいはその人の人生に影響を与えたり、力強い求心力を持った文化のるつぼだったんじゃないか、と思う。

 かく言う私はライヴシンガーという怪しげな仕事をしているが、この銀巴里によって人生が変わった者のひとりである。とは言え、銀巴里が開店した昭和26年に私はまだ生まれていないので、銀巴里が青春でしたという人たちとは大きなジェネレーションギャップがあることも確かだ。何を隠そう、私は「銀巴里最後の新人」なのであった。銀巴里は1990年までこの世に存在した。この伝統あるシャンソニエには毎年大変厳しい公開オーディションがあって、私は1990年のオーディションで見事に出演資格を獲得。TV業界とは一線を画したシャンソン業界へ第一歩を踏み出したのである。世の中はまさにバブル崩壊の影が呼ぶ不吉な予感と、いまだ覚めやらぬ成金への執着が入り混じった何とも形容しがたい浮き足立ったムードだった。

 余談だが、私にはバブル経済とシャンソンの流行が無関係だと思えない。シャンソンはフランス語で「歌」という意味だが、日本ではある時代のある雰囲気を持つ歌だけをシャンソンと呼ぶように思う。クラシカルなフランス歌曲や現在フランス本国で主流を占めるロックやポップスは間違ってもシャンソンとは呼ばない。仲間に入れたとしてもせいぜい60年代のフレンチポップスくらいがいいところで、やはりシャンソンと言えば「パリの空の下」だし「ミラボー橋」である。この手の曲は世の中より一足先に欧州旅行のできた人々によって日本に渡り、宝塚などでショーアップして、お洒落で高級な西洋の雰囲気を醸し出していた。それから、越路吹雪さんによってシャンソンは我々により身近なシャンソン歌謡になった。「愛の賛歌」「サントワマミー」「ろくでなし」・・・。80年代にカラオケが普及すると同時に、誰もが知っているカラオケの定番曲として地位を不動のものにした。そしてバブル経済の最中、金子由香利さんに憧れる多くの中年女性は我も我もとシャンソンを聴きに、あるいは歌いに、夜の街へ繰り出していくのだった。金子さんの登場は過去のシャンソン歌手の誰にも似ていないように思う。彼女の歌は上質なフランス映画の一コマ一コマのように、聴くものをあたかも映画のヒロインのような気持ちにさせた。山口百恵さんがメディアを通じて金子さんの歌を高く評価したことで人気に火がついた、とも聞くが、そのエレガントな風貌と、彼女が描くどこまでも切ない大人の男と女の恋の場面は、世の奥様たちを駆り立てた。

 金子さんは囁くように歌う。決してこれ見よがしに大声を張り上げて美声を自慢したり、難しい音程やパッセージをひけらかすことなく、まるで隣にいる人に静かに語るように歌う。それは、今までの歌のカテゴリーには見られないパターンだった。朗読とも芝居ともつかぬ、それでいて背後からはピアノやベースやアコーディオンの音が流れ、パリの街角の風景や、道行く娼婦や、淑女たちが目に浮かんでくるのだった。別れた男と再会する女心。避暑地にバカンスに行こうにも、一緒に行くはずの男を殺してしまったので行かれなくなった女。スカーフを首に巻くことで過去の男の温もりをもう一度思い出す女。今までにこんな繊細な描写をする歌が日本にあっただろうか。これはもう歌であって歌ではない。 現実を忘れさせてくれる一服の清涼剤であった。何せ「金妻」だとか「くれない族」などという言葉が流行るほど、世の中の妻たちは恋の場面に飢えていた。バブル景気で成金になった夫も多かったので妻たちにも贅沢のチャンスはあった。シャンソンを歌おう。シャンソンは大人の歌。若くなくたっていいのだ。若い人には出せない人生の味わいさえあればいい。音程なんか関係ない。立派な声も要らない。語ればいいのだ。素敵なドレスを着て、シャンソン歌手になろう。こうして妻たちのシャンソン熱は高まっていった。

 この頃私は大学を卒業したはいいが、就職にも失敗し、昼間は精神科の病院で受付をしながらパントマイムの劇団で稽古をしていた。シャンソンとの出会いは学生時代にもらったバルバラという女性歌手のLPから勢いがついて、ジュリエット・グレコ、イヴ・モンタン、コラ・ヴォケール、ジャック・ブレル、シャルル・アズナブール、ジョルジュ・ブラッサンスなどを聞いていた。何を歌っているのかはさっぱり分からなかったが、とにかく心地よかったので、自分のマイムのBGMに使ったりしていた。そこへ持ってきて私のパントマイムの師匠は、以前シャンソンを勉強したことがある、と言う。確かに本場のシャンソン歌手の間にはパントマイムを演じながら3分間のドラマを歌うというスタイルがまだまだ生きていた。パントマイマーにとってもシャンソンが必須科目であってもおかしくはない。そのうち日本にもシャンソンの聴ける場所があって、そのころ盛んにTV出演していた金子由香利さんもそこの出演者の一人だ、という情報を得た。これが私と銀巴里との最初の出会いだった。

 銀巴里は銀座のど真ん中にある割には、入り口で木戸銭を払うような庶民的な店だった。店内は黴臭いフランスの小劇場のようでもあるが、ステージに向かってベンチがきちんと並ぶ、お行儀のいい造りだった。木戸銭は確か\1,500だったと思う。ソフトドリンクが1杯ついてくる。アルコールを頼むともう少々値が上がったようだが、私はコーヒーを注文した。小さな窓口には不機嫌そうなおばさんが座っていて、まるでタバコ屋のようだった。初めてこんな場所に来た私は緊張して声もか細く「コーヒーください」と言うとおばさんは「え?聞こえない!」と学校の先生のように私をたしなめた。やっとの思いで、コーヒーと書いた(かどうかは定かでない)チケットをもらい、薄暗い店内で空いている席を探し、心細い思いでステージを見た。金子由香利さんはすでにスターだったので、美輪明宏さん同様特別出演扱いになっていたが、この日は通常営業で知らない歌手が次々と4人出てきて歌った。どうも最初に歌う人が新米で、後になればなるほど偉くなるらしい。歌手はみんなラフな格好をしていた。私はそれまでにもたくさんのシャンソンの原曲を聞いていたが、それとはまったく違うように聞こえた。何故なら銀巴里で聞くシャンソンはほぼ100%日本語で歌われるからだ。曲は知っているがこんな歌詞だとは知らなかった歌を、それも大層理屈っぽい表現で歌うが、幸いにも日本語で歌ってくれるので安心感はある。金子さんみたいな恋の歌を歌う人は少ない。どっちかと言うと社会派なイメージ。なぜか「蟹工船」という言葉が浮かんできた。一言にシャンソンと言っても色んな流派があるんだ、ということをそこで初めて知った。運ばれて来たコーヒーは美味しくなかった。ボーイさんたちは背筋を伸ばして立派な感じだったし、何だかみんなプライド高そうだった。どことなく学校みたいな雰囲気は好きにはなれなかったが、80年代にこの雰囲気は貴重だった。私は1945年に作られたフランス映画「天井桟敷の人々」にその頃出会い、感動してパントマイマーを志していたくらいだから、かなり世の中とズレていたし、この場所は気に入った。軽佻浮薄な世の中にこの黴臭さはたまらなかった。

 そんなわけで、翌日から私はさっさと路線変更して、さっぱり仕事の来ないパントマイマーからシャンソン歌手を目指すことにした。どのみち私のパントマイムには見るべき才能は無く、師匠からも歌が好きなら歌をやったらと見離されていたし、何よりバブルに浮かれる街角にシャンソニエは山ほどあったので、シャンソン歌手は猫の手も借りたいくらい忙しかった。シャンソン熱の妻たちも、にわか代用シャンソン歌手になったし、この私にもどういうわけか仕事が回って来るはめになった。私の記憶では盛り場を歩いていて石を投げればシャンソン歌手に当たる、という有様だった。しかし、シャンソン歌手を必要としている酒場のほとんどが、銀巴里とは似ても似つかない様子で、これのどこがシャンソニエなんだろう、と思うことばかりだった。自分は自分のことを歌手だと思っているかもしれないが、どこから見ても単なる接客要員なのではないか、という場所もたくさんあった。歌なんかろくすっぽ聞いていない酔客の前で歌っているのも空しかった。その上、私の歌は恐ろしく下手だったので、真面目に聞いてもらっても困るというようなこっちの事情も相まって、実に状況は矛盾を極めていた。しかし、どうせやるなら例の銀巴里にも出たいし、何か目標がほしい。そうでなければ一体何のためにこんなことをしているのか分からない。当時華やかなシャンソン界には2つの大きなタイトルがあった。ひとつはこの銀巴里のオーディション。そしてもうひとつは石井好子さんの系列の日本アマチュアシャンソンコンクールである。最初の頃はテープ審査にも落第していた私だったが、どういうわけかジワジワと歌唱力が身に付き、1989年にはシャンソンコンクールのグランプリを勝ち取り、翌年1990年には銀巴里のオーディションにも合格していた。今思えば人生の運のすべてをこの2年で使い果たしたんじゃないか、と思うほどの運のよさだった。

 オーディションに受かったのは補欠合格者も含めると5、6人いたと思う。社長はこの新人たちのために銀巴里歌手として恥ずかしくないように練習のためにピアニストを頼んで我々が練習する機会を提供してくれたり、大変親切だった。「これからの銀巴里をしょって立つんだから、ステージでの服装はなるべく華やかに、ラフな格好では出ないように。それからなるべくお客さんの知っているポピュラーな曲を選曲するように。」と私がそれまで思っていた銀巴里歌手とはだいぶ違うイメージを要求した。後から思えば、バブルの華やかな時代に銀巴里は逆にマニアックになり過ぎて、だんだんお客さんが離れていっていたことを示唆していたのかもしれないし、我々新人にはそうならないでくれ、ということだったのかもしれない。

 まあ、何だっていい。とにかくあの銀巴里に出演できるんだ。私の将来は前途洋々だ。と、まさに期待に胸ふくらませて、銀巴里のスケジュール表に自分の名前が印刷されるのを見るたび、いっぱしの歌手になったような気がしていた。しかし、いったいどうしてそんな気分になれたのか今となれば不思議だ。私の初めてのギャラはたったの1,800円だった。これは1日4回ステージ歌った報償だった。聞けば先輩方も銀巴里のギャラは通常の自分のステージの価格とはまったく別。つまり、歌謡曲の歌手にとっての紅白歌合戦同様、そこに出ること自体がステイタスになるので金額など一切問題外だということだった。私も当然そのつもりだった。銀巴里は出演者の心の拠り所だったし、無名でも自分はプロの歌手なんだというプライドを持たせてくれた。

 オーディションに受かって夢のように歌いはじめ、1年もたたないある日のこと、1枚のブルーの葉書がポストに舞い込み、そこには「銀巴里閉店」のお知らせが社長の名前で書かれていた。目が点というのは、目の前が真っ白というのはあのことだろう。その本当の理由を今でも私は知らない。地上げでビルを売ったとか、消防法に引っかかったとか、安い木戸銭でマニアックなことをやっていたので大赤字になっていた、とか色んな噂は聞いたが、理由は何であれ銀巴里が無くなる、ということだけは事実だった。私は既に30歳になっていた。ほかにできる仕事があるとも思えなかったし、歌を止めるつもりもさらさらなかった。しかし、明日からいったい何を拠り所に生きていけばいいのか。おまけに、いつのまにか、シャンソン歌手は綺麗なドレスは着るが、音程は無いし、声は出ない、という評価が世の中に出回り始めていた。バブル崩壊と共に、シャンソン歌手の甘い夢も徐々に崩壊していくのだった。

 ベテランでもなければ、名前も知られていない「元銀巴里歌手」にそうそう世の中は甘くはなかった。 「シャンソンなら要らない」と言われることもあり、私はシャンソン歌手と名乗ることがだんだん苦しくなってきた。そうだ。何を歌おうとシンガーとして認められることが一番大事なんだ。もう銀巴里は無いんだ。いつまでも過去の幻に引きずられている場合じゃない。自分の歌を探さなければ。そう思ってその後の十数年を必死で生きてきた、と言えると思う。たくさんのライヴもした。私に色んな勉強をさせてくれた渋谷の「ジァンジァン」も今はもう無い。多くのシャンソン歌手を守った新橋の「アダムス」も昨年オーナーの急死によって閉店した。今は特定のライヴハウスにステイタスを感じることもなくなった。自分の歌を歌うこと。自分が自分の拠り所であること。それしかないのだ。そして嬉しいことに私は今でもシャンソンが大好きである。シャンソン歌手と名乗ろうと名乗るまいと、私の青春の1ページは確かに銀巴里にある。例え最後の新人であっても、私にとって夢だった場所。そしてその最後に立ち会えたことは、今でも私の大きな財産なのである。

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2005年8月

夏の日の出来事
 生まれて初めて見合いの誘いを受けた。見合いと言ってもいわゆる集団見合い。今風に言えば合コンというやつだろうか。相手は某大企業の管理職たちである。企業戦士には意外に独身が多いらしい。仕事に夢中になっているうちに婚期を逃したか、あるいは、職場によっては女性の数が足りなくてボ〜っとしている間に、同年代の結婚相手はすべて片付いてしまったか、あるいは、もっと深刻な場合、いくら結婚したくてもまったく相手にされなかったか、そもそも結婚などするつもりはサラサラなかったか。理由は知らないが、とにかく独身者が多いこの企業は社長自らのご発声で、彼らに相応しい妙齢の(つまり若くないってことだ。)女性を各方面から集めて、楽しいパーティーを催したらどうか、ということであった。どういうわけか、私のところにもこの話は回ってきて、私と同じく独身のピアニストSは、いそいそと日比谷の松本楼へ出かけていくのだった。

 私たちはなるべく清楚なワンピースを着、化粧もいつもより控えめにして、あまりしゃべらないように誓い合って紹介者のU氏に導かれつつ会場に赴いた。ちょっと早めに到着した私たちは受付を済ませ、会場の外で待機していた。するとエレベーターからいかにも清楚に気合を入れた女性たちが次々とエレベーターを降りてくる。その姿はどこから見ても20代のOLさんたちだった。私たちはU氏に「ちょっと、ずいぶん若い子が集まってくるじゃないの。」と心配になって問い掛けると、U氏は「色んな年齢層が来るんじゃないの。」などと暢気である。しばらく待つと、若い女性の数はさらにさらに増え、どこから見ても私たちは彼女たちの保護者である。そのうちどうにもならなくなったのは、男性の登場であった。何故かエレベーターには乗らず階段で上がってくる彼らを見た瞬間私たちは完全にお手上げになった。男性もやはり20代だったからだ。「何よ、これ。話が違うじゃない。」とU氏に問い詰めると、「何かの行き違いがあったんだろう。でも、もったいないから食事だけでもしてきたら。僕は既婚者だから中に入れないし、下で待ってるから。」と消えてしまった。

「ちょっと、どうする?」「ねえ、部屋の隅にピアノとマイクがあるよ。この際仕事で来たって言って歌っちゃわない?」「そうだね。その方が全然恥かしくないもんね。」などと言いながらも、ウェルカムドリンクを受け取り、呼ばれるがままに指定された座席に座った。周囲は顔の区別がつかないほど、似た感じの若者男女である。司会者の挨拶があって食事が始まって、周囲の会話が盛り上がったり、同じテーブルに居た女性などは本気で目の色を変え、会場中を物色して歩き始めた頃、私たちはうつむいてもくもくと食事をしていた。「どうする?歌う?」「うん。でもいきなり歌うのも変だよね。」「取り合えず全部食べてからにしよう。」そう言いながらも、顔が皿に埋まりそうに低姿勢である。周囲から聞こえてくる若者たちの会話は、ほとんど池袋の居酒屋の中と変わらない。いったい何なんだ、このイベントは。たまたま隣にどういうわけか、子供が3人くらいいてローンを何十年も抱えてそうな社員のオジサンがいたので質問すると、聞けばこの企業の若い社員のための見合いの会であると。最初の社長の、管理職のためのお見合いという企画が何時の間にか変更になったのだと。「なあんだ。知らされてなかったのは私たちだけだったのか。」などと言いながら、私たちはオジサンとギックリ腰の話やらスキーで靭帯切った話などで盛り上がった。

 すると、ピアニストのSは「まずい!!あたし本当にギックリ腰になって来た。」と言うなり冷や汗をかき始めたのである。「ええっ!!嘘でしょう??」と言っている間にSの顔色はいよいよ青ざめてきた。食事も一通り済んだし、もう用はなさそうなのでこれをきっかけに私たちは部屋を逃げ出した。転がるようにして、下で待っているU氏のところへ行くと、主催者も傍にいて「ごめんね。話が最初と変わっちゃったの。」としきりに詫びる。Sはロビーでしばらく休んでからタクシーに乗って行ってしまった。私は「ひどいじゃない。すごく恥かしかったわよ。料理は美味しかったけど。しょうがないから、隣に座ってたオジサンと怪我や病気の話しちゃったよ。」と言うと主催者は「そのオジサン。あそこの中で唯一の管理職独身者だよ。」と言った。信じられない。3人の子持ち、ローン何十年みたいな顔してたのに。

 この話を、50近くになって再婚に成功した女性に話すと、「だいたい、40過ぎて結婚の経験のない男性は、それなりに理由があってそうなっている場合が多いので、他人と共生は難しいかもしれない。はっきり言ってものすごく変な人が多い。一人で何時間もしゃべり続ける人とか、反対に完全黙秘を続ける人とか。」彼女は色んな見合いの会に入って再婚相手を探したので、かなり統計的に話ができるのである。なるほど。独身者はずっと独身でいる方が幸せなのかもしれない。企業の社長も余計な心配しないで、会社の経営の心配だけしてればいいのだ。この私にしても話のタネにノコノコ出かけていったその芸人根性が裏目に出たのである。気の毒なことにその後Sは体調を崩し、何日も仕事を休む羽目になった。

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2005年10月

秋は美しい。秋になりたい。

天高く 徒然なる秋・・・・・・。

 あれよあれよ、という間にもう秋半ばである。今月はDMの発送が大幅に遅れ、いよ いよ引退したかと思われた方も多いと思う。それほど世の中何が起こるか分からな い。このところの天変地異はいかがしたものか。地球が反乱を起しているとしか思え ない。

さて、今月はのっけからコンサートをした。荒川区町屋という町で始まったコンサー トは年1回のペースで続いてきたが、今年はその7回目だった。一つの会場で、まし てや公共の協力を得ながら継続して公演できるというのは大変幸せなことである。私 にとって荒川区はほんの近所だが、中には「そんな遠くまで行きたくない」とか「そ れは何県ですか」などと言う無礼者もいる。何を中心に遠いとか近いが決まるのか。 アラスカだってそこに住む人にとってはごく身近である。何でも自分中心に考えるか らこういう発想になるのだ。そんなこと言ってる間に電車に乗れば必ず着くから。と 励ましてせっせとチケットを売った。

 このコンサート、例年は12月に行われ、せっかくなので「クリスマス・キャラバ ン」と名づけていたが、今回はたまたま会場の都合で10月に早まり、タイトルに 困ったので「月夜の音楽会」などという適当な題名とつけた。ところで、何故秋にな るとお月見をするのか・・・・満月は毎月必ずやってくるのに、秋の満月ばかりが何 故持てはやされるのか。そんなことを考えているうちに次第に選曲が決まっていっ た。秋は空気が澄んでいるから月がことさら美しい。秋の半ばの月はましてや美し い。中秋の名月という言葉もそんなところから生まれたそうだ。

 月を思う歌は古今東西限りなくある。「ムーンリバー」はパーカッションに導かれて 太古の響きで。「月がとっても青いから」はインベーダーゲームのコミカルさ。服部 公一さんの名曲「とても大きな月だから」の間にベートーベンの「月光」を入れて。 そしてそれに乗って私は中原中也の「湖上」を朗読するから。「月の砂漠」は死のイ メージで。宵待草は竹久夢二の絵そのものに。・・・・などと次々とアイディアが浮 かんだが、それを全て音に変えてくれたのはピアノの西直樹さんだった。

 昨年この人に出会えたことが私の音楽の可能性を極端に広げてくれたように思う。こ の人には膨大な音楽的引き出しと、絵画的イマジネーションと、そしてこの上なく暖 かい人間性がある。これまで色んなミュージシャンにお世話になって歌ってきたが、 この人に出会えたことは、もしかしたら後から振り返れば私の音楽の大きなターニン グポイントになっているのかもしれない。それも、もし彼に5年前、7年前、10年 前に出会っていたとしたら彼は私を認めなかっただろうし、今だからこそ力を貸して もらえるような気がする。今日まで音楽を止めずに来てよかった。こんな人に出会え ずに音楽を諦めていたら、つまらない人生だったろうな。「全てのことには時があ る」というのは私が一番好きな聖書の中の言葉だ。何であろうと好きなことはズルズ ル継続しておくものなんだろう。

 というわけで、私にとって今年の荒川でのコンサートはとても手ごたえのあるもの だった。これに勢いをつけて来年の日程も既に決定。11月11日(土)のまさにゾ ロ目。西さんのスケジュールも押さえたし、次への準備は既に始まっている。

 コンサートが終わったら急に肌寒い。先日の上野のライヴの日はあまり寒かったの で、上着を買おうと思って近くのファッションビルに入った。この手のビルのター ゲットは間違いなく20代の女性である。売ってるものも若い女性向けなので、中々 気に入ったものはない。それでも寒いから何か買わないとと思ってウロウロするうち に、妙なことに気づいた。ビルの中には色々なブティックが雑居していて、店員もそ れぞれ別の店の従業員なのだが、揃いも揃って同じなのは「いらっしゃいませ」のイ ントネーションである。「いらっしゃいま○」まではごく普通である。皆さんも試し に一緒に言ってみよう。問題はその次の「せ」にある。この「せ」をとにかくゆっく り下から上へずり上げると、あなたも明日からここの店員になれる。家に帰ってから ピアノで確認したところ五線の下のソの音から五線の中のファの音までジワジワとず り上げていることが分かった。「せ〜〜〜〜〜え〜〜〜〜〜え」と言う最初の「せ」 の音がソ。最後の「え」の音がファくらいまでずり上がっていく。これが分かりにく ければ、歌舞伎の「ヨ〜〜〜〜オ〜〜〜ッ」という掛け声を思い浮かべてみるとよ い。下から上へ時間をかけるのである。それもあの店もこの店もみんなやっている。 さながら動物園の象の檻の前に立ったような気分である。

 あまりに驚いたのでこのことをとあるインターネットサイトに書くと、意外や意外。 これはこのビルだけの話ではなく、遠く12年前からあった若者独特の「いらっしゃ いませ」だそうで、それも最後の「せ〜〜え〜〜」は鼻にかかるように発音するそう である。今ではかなりの店員がこれをやっていて、渋谷からも蒲田からも現象が報告 された。と、言うことは地域に関係なく若者のいるところにはこの「いらっしゃいま せ〜〜〜ええ〜〜」があると思って間違いない。何故こんなことになったのか、しば らくこれに注目して研究してみようと思っている。ご報告はまた後日。

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2005年11月

美しい季節のセプテンバーソング

 四季のある国に生まれて本当によかったなと思うのはやはり秋だったりする。空気が 透明度を増すとでも言うのだろうか。天高く・・・とはよく言ったもんだ。木々の紅 葉も澄んだ空の色あってこそくっきりと鮮やかで、日に日に短くなる日照時間が切な さを醸し出す。おまけに金木犀の香りと来れば、もう演出効果抜群なのである。秋は 舞台の魅力に似ている。人を酔っ払わせる。

 ユダヤ系ドイツ人の作曲家にクルト・ワイルという人がいて(1900−1950) 彼の作品にこのところ熱を上げている私だが、その中でも大変美しい曲が「セプテン バーソング」である。1983年の「旅愁」や1987年の「ラジオ・デイズ」とい う映画等でも使われたが、もともとは1928年「ニッカ・ボッカ・ホリデー」とい うミュージカルのために作曲された。この作品自体のストーリーはかなり政治的だそ うだが、メロディーは実に甘美でちょっと怪しい。

「若いお嬢さん。男の子たちは甘い言葉やクローバーで作った指輪でせっせとあなた をくどくけれど、彼らがあなたに持ってくることができるものは、自作のちょっとし たラヴソングと、そして多くの無駄な時間ばかり・・・・。人が生まれる時を1月と すると大人になるのは5月。それから12月までの人生の時間は本当に長い。けれど 9月ともなればそろそろ人生も黄昏時。一日一日と日は短くなるし、木の葉は炎のよ うな色に変わる。私にはもう若いお嬢さんのようにただぼんやりと待っているだけの 毎日は送れない。最後の炎を燃やすように、残された時間をあなたと一緒に過ごした い。」

 と、まあ中年にとっては実に染み入る歌なのである。この歌を歌うと、たとえそれが ホテルのラウンジのような音楽をBGMとして聞き流している場所であっても、お客 さんが急にステージの方に集中するのを私は何度も体験している。何がそうさせるの かは分からないけれど、この曲にはそういう魅力があるらしい。

 思えば死なない人はどこにもいないよな、と最近よく思う。葬式は悲しいけれど、 じゃあ生まれるだけ生まれて誰も死なない世の中になったらそれは嬉しいことなの か。とも思う。早死にや変死や頓死は歓迎できないにせよ、寿命をまっとうして死ん でいくことは実に目出度いことなんじゃないか、などと考える。生まれてくるのがひ たすら目出度くて、死んでいくのがひたすら不幸、などという不公平は絶対無いはず だ。どっちも目出度くて何が悪い。そう思うとこの曲がなおのこと染みてくる。自分 があと何年生きるか知らないが、身体が自由に動く時間にも限界があるようだし、も う若い頃のように時間を無駄遣いはできないな、と考える。そのためには何をして何 をしないのか。

 やりたいことはとっくにやっている。というのが私の持論である。今まで興味もな かったことが急に好きになる、ということも万一あるのかもしれないが、これから私 がバレリーナやピアニストになることはあり得ない。今までやらなかったことはやは りこれからもやらないだろう。何度も挫折して結局また根尽きたスポーツクラブ通い はこれから何度繰り返しても挫折するだろう。部屋がピカピカになったり、まめに料 理を作ったり、誰かのために編物をしたりすることも絶対ないだろう。そう思うと若 い頃頑張ったことだけが生涯を決める・・・というのは本当らしい。「徹子の部屋」 に出てくる芸能人の若い頃の芸暦がすでに華やかなのは、早くから自分の人生を歩き 出している、ということの証拠ではないかしら。どんな家庭環境に生まれるかにもよ るようだし、人生は意外と早くから始まっているようだ。ぼんやり成長してしまった 私のような芸人は長生きするしか方法がないだろうな。せっせと若作りでもするか。 また人生の無駄遣いをしそうな予感。堂々巡りである。

 ところで余談だが、竹下ユキ50歳説をまことしやかに語る人々がコンサート会場に いた、という報告がされている。人の年齢を多めに吹聴するなどという行為はほとん ど死刑に値する。気をつけてもらいたいものである。

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2005年12月

竹下ユキ 魔女説

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魔女説。

 このところ、割と真面目にライフサイクルのことなど考えている。自分にも家族にも 老化現象を認めるにつけ、人生の後半戦にはどんな意味があるんだろうな、などと思 う。

 紀伊国屋書店で戸川達男氏の「動物の老い 人間の老い・・・長寿の人間科学」(コ ロナ社)という本を手に取ったときは、あまりにタイムリーだったので、するりとサ イフの紐がゆるんだ。氏は早稲田大学の人間科学部の教授だけあって、実に小気味よく人間 を個体として表現し、それが人間を暖かい目でとてもユーモラスに見つめる視線とし て感じられ、またたく間に読んでしまった。

 本来「体の組織は主に固有の寿命程度しか機能しないようにデザインされている」に も関わらず種の存続のために「繁殖力が強く有利なはず」の「若い個体」に負けず劣 らず「集団の中に多くの高齢の個体がいる」のは実はここ100年くらいの話であっ て、多くの人が現在「高齢を生きるという新たな課題に直面」し「寿命が延びても老 化を防ぐことはできない」し、昔は長生きする人は珍しかったので「長老」として尊 重されたが、こう「社会の変化が加速」して「過去の知恵の貯蓄が役立たなくなり」 「高齢者は情報の担い手としての特権を失いました。」となると、高齢者は「社会に 負担をかけるだけの存在になり、心の充足が困難に」なってきている、のだと。「寿 命が着実に延びていっても心の充足が追いつかないために高齢者にとって苦しい時代 がこれからしばらく続くかもしれません。」と恐ろしげなことも書いてある。

 しかし、ここで氏は人間の心の研究に、いままでのような生活の中の試行錯誤の繰り 返しからではなく、「生命科学に匹敵するような高度の人間理解の基づいた知恵の創 出が必要」だと説く。「心の科学が飛躍的に発展」すれば、例え肉体は老化しても心 はますます豊かになることが可能だろうと。氏の言う「心の科学」とは宗教を含めた 今まで「非科学的」と呼ばれた域にまで光を当てていくことのようだ。

 確かにこの所、科学や社会の変化と逆行するように「霊」や「気」「目には見えない が確実にあるもの」にまつわる話が多い。現に私の周りには人のオーラの色がはっき り分かる人たちがいるし不思議な話もたくさんある。

 ここからが本題だが、余談として読んでいただいてもよい。前世とか過去世という言 葉があるのをご存知だろうか。実際アメリカでは医療現場でも催眠療法としてその人 (敢えて言うならその個体)の魂が過去に宿っていた肉体の話をさせる、ということ が行われている。(エリザベス・キュープラー・ロス「人生は廻る輪のように」ブラ イアン・L・ワイス「前世療法」参照)現世で自分には到底理解できない人間関係の 不条理などの原因が、過去世に由来することが分かった途端、現世の悩みから解放さ れることは多々あるらしい。

 実はこのことに興味を持った私は人の過去世が見える霊感を持った人に会いに行っ た。彼女は茨城でそれをきちんと職業にしている私と同年代の女性で、ローカル番組 のレギュラーなども勤めるらしい。見たところ少々神経質そうだが、ごく普通の女性 だ。私を壁の前に立たせると、色んな角度から視線を投げていたが「はあ、なるほど ね。」と言って、私の肩から何かを払いのけるような動作をした。

 彼女に言わせると通常いくつか浮かんでくる過去世だそうだが、私には一つしか現れ ず、それは中世のヨーロッパらしい。場所は窓のない暗い部屋で、私と思しき髪に カールのかかる中年女性が中央に居り、周囲には12歳くらいまでの様々な年齢の子 供たちがいる。この子供たちは彼女の子供ではなく彼女が拾ってきた孤児らしい。彼 女の職業は何かと言うと、所謂「魔女」と呼ばれる女で子供たちに呪術を教え、頼ま れた仕事をするために子供を派遣する。子供は12歳くらいになると自立して彼女の 元から出て行くらしい。それは何とも不思議な光景だと。魔女の仕事は人のためにな るようなこともあれば悪いこともあり、決して清清しいものではない、と。

 転じて、今の私はその魔女の魂を受け継いでいるので、何をするにも自分の感性を第 一にするべきだ。上手くやろうとか立派になろうとかするのではなく、自分のオドロ オドロしさも含めた内面を表現している限り人はそれを見たいと思う。ただしそれだ けだといつまでも魂は清められないので、傍らにボランティア活動をしたりすること で魂を浄化させる必要がある、と。

 ボランティアする魔女なんて聞いたことがないけれど、しばしば私がボランティアに 借り出されるのは、これも神の思し召しかと思うと、諦めざるを得ない。それがオド ロオドロしさを来世に持ち込まないための策なのだと。

何だかなあ。自分では極めて清らかな人間だと思っていたのでいささか腑に落ちな い。

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