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竹下ユキ
エッセイ2000


2000年2月
ミレニアム それから。

2000年3月
美しく老いる?

2000年4月
続・美しく老いる?

2000年5月
続々・美しく老いる?

2000年6月
頑張れ ジャパニーズ!

2000年8月
ワーカホリックの休日

2000年9月
DMの行方

2000年10月
続・DMの行方

2000年11月
おお、ハナヤシキ!!

2000年12月
20世紀終わる、の巻


最新エッセイ
2000年2月

ミレニアム それから。
 早いものでもう2月である。2000年問題も含めて盛り上がろうとしたのも束の間、やはり時は冗長に流れていく。とは言え、世界中がこのミレニアムをちょっとばかり特別視したわけだから、きっとそこここでいくらかのエネルギーは生まれているはずだ。明るい方向に展開していってもらいたいものである。
 私と言えぼ、2000年問題対策で買い込んだ水のボトルが今だ玄関にうす高く山積みされている有り様。おまけに12月31日にワープロがストライキを起こしたので、こんな所にまで問題は押し寄せるのかと愕然としていたら、何のことはないフロッビーディスクのカセットに挨がたまっていただけだったり結構間抜けな幕開けであった。その上元旦から仕事をしているものだから、いわゆるお正月らしさもろくに味あわず、大掃除も年を越した。今だ私は大掃除の途中である。  いつも思うことであるが、フリーランスで仕事をするということは人並みの生活をあきらめるということなのだろうか。もちろんきちんとしたお勤めをしている人だって、人の命を預かる仕事やサービス業の人たちはかなり不自由な生活をしているんじゃないかと思うけれど。先日あるエリートは言った。「会社へ行く時地下鉄から降りるでしょう。すると地下道にホームレスみたいな人が寝てるわけよ。あれ見て時々あんなふうになれたらいいなあ、と思うんだよね。何もかもしがらみを捨てて自由になりたいって思うのよ。」(なるほど)それと同時に彼はこうも言った。「君みたいな人生うらやましいよ。」(あんた私をホームレスと一緒にしたな)言っとくが私にだってちゃんとしがらみくらいあります。断わりきれずにやってるへんてこりんな仕事がどれだけあることか。みんな人のことはよく見えるのよ。あんたボーナスもらえるだけいいじゃない。おまけに退職金も出るんだし。私なんか病気したら終わりよ。と、ああ言えばこう言う録は続くのである。ま、それしか出来ることがなかったのも含めて結局好きでやってるんだからしょうがないじゃない、などと言ってお茶を濁すぼかりだ。
 思えばこのエリート氏も私も不惑の年齢間近、言うならぼ不惑どころか自分の人生これで良かったのかしらと思うことしきりの時期なのである。私に関して言わせてもらえぼ、少なくとも歌を職業に選んだ若かりしあの頃の展望としては、今頃はもっとすごい歌手になっていたはすなのだ。すごいと言っても色々あるが、ヒット曲を出すとか流行歌手になるとかではなくて、ライヴハウスで確実な人気と実力を持ち、揺るぎない自信に満ちて誰にも歌えない歌を誰にも出せないような声で歌うという言ってみれぱ伝説のモンスターになっているはすだった。それどころか妖怪でもよかった。気が向けぼ道端でも歌うが、気が向かなければカーネギーホールの仕事もスッポカスような大物なら尚よかった。強靭な喉と類稀なる感性を持つ紙一重の怪物に憧れていた。ところが現実はどうか。ある老舗のジャズライヴのオーナーはこの大物の私に向かって「今日お客は何人来るんだ?」と一声も出さないうちからわめいている。馬鹿野郎である。自分の店の客ぐらい自分で確保しないでどうする。歌手に店の不景気の八つ当たりをしているようでは先は長くない。若手は大目に見られる。ベテランは当然丁重に扱われる。勧き盛りの中堅は程のいいサンドパッグになる。フリーランスもサラリーマンも何ら変わることはない。そんな環境の中で周囲に翻弄されながら日々辞表を懐に携帯して歌っているようなものである。これを自由と言えるだろうか。自由どころか大変な不自由さだ。恐らく不惑たちには過去や未来がいっべんに見渡せるのだろう。過去の夢がとりあえず形ばかりは現実となったが本当の夢はこんなんじゃなかったとか、あるいは何か違うよなあみたいな漠然とした不満と、この先どれだけのことが出来るのだろうという軽い絶望感に襲われているのだ。立派な先人は「まだまだこれからじゃないか」とか「人生で一番いい時期だ」と言うけれども。
 しかしこうも思う。不惑たちはとてもいい壁にぶつかっている。これを越せるかどうか。取り敢えす私はフリーランスの特権を活かした我儘な仕事をしたいと思う。仕事を減らして時間を得よう(と思いつつ何だこの相変わらずの貧乏暇無しテイタラク)。自分の歌を歌おう(一日3回「タイタニック」のテーマをリクエストするのやめて)。かくかくしかじか。まだまだ不惑にはなれない。エリート君はどうするのかな。お互いミレニアムパワーの恩恵を蒙りたいね。

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2000年3月

美しく老いる?
 先日、誕生日が私に訪れその衝撃を一人で受けとめるのが余りに恐ろしかったので、歌手という身分を利用してバースデーライヴを行なった。あの日ほど人の情けが身に沁みた事はかつてないかもしれない。たくさんの罪の無い人々が訪れてくださり、私にお悔やみを言うどころか「おめでとう。」など言ってくれておまけに気のきいた人になるとプレゼントまでくれるのだった。こんなことは歌手でもやっていない限り生涯体験できない幸福である。昔から、自分の都合のいい時に人を集めるなどという事は結婚式か葬式と相場は決まっている。それを大胆にも、我ら地味なれど歌手はしばしば行っているのだ。なんともバチ当たりな人生である。それはともかくライヴは終始なごやかに進行し、中にはナチュラル・ハイが更に進行して異様な盛り上がりを見せてくれたお客さんもいた。(GOちゃん、あんたのことだよ。)何にせよ私もミュージシャンも客席も大いに楽しんだ。そのおかげでうやむやのうちに誕生日は訪れ、ショックを最小限に食い止める事ができた。ありがたいことである。
 それにしても、自分がこんなに長生きするとは当初の予定になかったので、正直言って最近少々びっくりしている。食べ過ぎなくてもお腹はたるみ、睡眠が足りていても顔色は冴えない。つまり何もかもが良からぬ方向へ進んでいるようなのである。周囲を見回してもヤレ滑ったにの、転んだの、死んだのとロクな話題がない。一体、世の中の人は自分に降りかかるこの変調にどうやって平気を装っているのだろうか。昔、さほど若くない先輩歌手が「私だって最初からこうだったわけではありません。昔は若かったのよ。」とお客さんにさとすように言っているシーンに出くわしたことがあるが、その時私は不躾にも「信じられない。この人に若い頃があったなんて。」と心の中でつぶやいていたのである。若さとは無知ゆえにずいぶん残酷である。今であるなら私はその人の手を取って「お気持ち、よく解かりますわ。」と共感するだろう。
 おまけに世の中の仕組みが、特に女性に関しては小学生から30代前半を珍重する風潮にあり、それは例えガングロ・ヤマンバであろうと大目に見る大らかさだ。ならば明日私がヤマンバの出で立ちで電車に乗るとしよう。レスキュー隊が来るに違いない。そのくらい不公平にできているのである。蝶よ花よの時代は本当に短い。だから最近私は、30才になった途端何故かモテまくっている若い友人に言うのだ。「いい時代はたちまち過ぎる。せいぜい楽しみなさい。」と。しかし驚いたことに20代ですでに終わったようなことを言う若者もいる。要は気の持ちようである。あまりがっかりせずに暮らしたいものだ。そしてその年代なりに美しいことはとても大切である。男であろうと女であろうと時々びっくりするほどかっこいい中老年を見かけることがあるが、そういう人はとても稀なので追いかけてでももう一度見たい気にさせる。昨年仕事でご一緒した前田美波里さんはまさにそうだった。50代と言っていたし、なるほどその年代のエレガントさはあるものの、体型にせよ肌の美しさにせよアッパレとしか言いようがない。その後化粧品のCMに起用されていたのもなるほどうなづける。 しかしそこにはたゆまぬ努力と生活の節制という裏付けがあるわけだから、美しく老いるということは大変ストイックな事ことなのかもしれない。私には自信はない。
 しかし嘘かと思うかも知れないが、私は『美』に対してはこだわりを持っているのである。2年前ほど前に補整下着に大枚をかけた旨を皆さんにお知らせしたことは記憶に新しいが、実はその後も『美』へのこだわりは続き、次々と新しい挑戦を展開している。では、挑戦した結果はどうなのかという質問には答える気がしない。実に愚問だ。人生「七転び八起き」「一歩前進一歩後退」「楽ありゃ苦もあるさ」である。たるみのないタフな体型を目指してスポーツジムに入会したものの、忘れた頃に頑張るだけでは、その上、頑張った日はことさらビールの量が増え、元の木阿弥どころか逆効果だったりすることも知った。たるんだ顔にはセロテープを貼って引っ張り上げることであるべき顔に戻す、言ってみればそういう原理の化粧品が出たときには、どうしてこんな簡単なことに今まで気がつかなかったのだろう、と感激して盛んに試したが、その効果がわずか1時間しか持続しないことも体験した。自分であれやこれやと方法を編み出すことの愚かさが身に染みた頃、私は方向転換を決めた。残るのは他力本願、つまりエステサロンである。(続)

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2000年4月

続・美しく老いる?
 昔はエステに通うなどということは、女優さんかなんかでなければ馴染みのない特別な贅沢であった。あるいはお金に余裕ができた頃、皮肉にもそれと引き換えに若さが遠のいていたことに気づいたマダムがまだまだこうしちゃおれんと気合いを入れる場所でもあった。ところが今は美容院に行くのと同じくらい敷居が低い。というのは20代の女性向きのファッション雑誌を見ればすぐわかる。比較的低料金で、とにかく夏までに何キロやせるとか、ウエストが何センチ縮まったとか、顔が小さくなったとか(どれだけ大きな顔だったんだろう?)同じ人間のエステ以前とエステ以後が写真で比較できるのが実に楽しい。
 実際20代の独身OLの『美』に対する執念は恐ろしい。我々(誰のことだ?)のような、失いつつある若さへのカムバック・コールには一種の憂いと哀愁が伴うものだが、今を盛りとする強気な女性の執念になると、『美』のためなら死んでもいいくらいの脅迫観念がある。いったい足が細くなったくらいで人生が変わるのか、と今になれば思われるが確かに彼女たちにとっては一大事なのである。それは何も、より条件の良い男を亭主にするためだけではない。むしろ世の中にあふれる『美』の基準に近付きたいという一心なのである。その基準と言うのは当然TVを初めとするマスコミの情報だが、近頃の人類皆平等的教育のたまものであろう「努力すれば何とかなる」という錯覚にも大いに関係している。どう転んだってスーパーモデルとはほど遠いであろうという人がひたすら細くなろうとしている。真面目な人ほど努力が好きなので「なりたい自分になる」などという前向きなキャッチフレーズに奮い立ち、不可能のない人生に挑んでいく。肉体というのは幸い目で確認できるので、とても解かりやすいチャレンジ材料でもあるのだ。エステサロンのイメージキャラクターに、馴染み深いタレントを使うのもなかなか心憎い。身近な友達がきれいになったような錯覚に陥るではないか。「ならば、私も」と思ったとしても当然である。何もかも思うツボなのである。
 私は20代の頃OLにもなれず、ずるずると歌を歌っていたので本当に貧しかったし、エステに行くなど身分不相応であったので、せいぜいキュウリを自分で輪切りにして顔に乗せるくらいの工夫しかできなかったが、だからといって足が太い事を黙認していた訳ではない。チャンスさえあれば自分の顔かたちを何とかしたいと思ってはいた。だから彼女たちの気持ちはほぼ理解できる。だがそれは現在私がエステに通う理由とは大幅に異なる。当時は漠然とした『美』のイメージがあってそれは限りなく頂点のないものだった。その枝相応の花盛りに、枝が折れるほどの大輪の花を望んでいるような欲深さとでも言おうか、贅沢な話だ。ところが現在は、花は半分くらい散ってしまったがまだ枝にへばりついている残りの花を一日でも長く咲かせておきたい、アロンアルファでくっつけておきたい、そんな切実で哀れな気分なのである。そしてもう少し年を取るともっと恐ろしい心境になるらしい。私は通信販売で売られている、誰も聞いたことの無い怪しげな化粧品の広告を読むことがとても好きだが、外国の化粧品で恐ろしいものが多々ある。モデルは性別を超えた深いシワをたたえた恐らく女性と推定される老人である。そのクリームを7か月塗ることで「こんなに良いキザシが!!」と使用前使用後の顔写真が並んでいるのだが、私の目にはどこに良いキザシがあらわれたのかさっぱり解からない。他の化粧品には老女が「私は81才。信じられますか?」とある。確かに81才には見えないかもしれないが、79才には見えるのである。キンさんとギンさんはどっちが美人かと聞かれて困るようなものである。思わず『うう・・』と唸ってしまうに違いない。こういう化粧品は使うと一気に老けてしまうようなマイナスの宣伝力がある。恐ろし過ぎてとても使う気にはなれない。やはり化粧品の宣伝は、騙されているとわかっていても若くてきれいな人にやってもらいたい。売っているのは『夢』なのである。
 ところで、日本には「ゲラン」だの「カリタ」だの妙な名前の外国の高級エステがあることは私だって知っている。ただし断っておくが私はあくまで歌手である。同年代のマダムに比べると遥かに貧乏であるからしてエステを選ぶ際にも20代の雑誌を見て考えるのである。しかし私にも常識はある。「神田うの」のヌード写真を見て自分もこうなれる、と思うほどまだボケてはいない。ただ、「木の実ナナ」のフラメンコ姿には何故か親しみを持ってしまった。そこで私は「木の実ナナ」をイメージキャラクターにしたエステサロンの扉をたたくのである。(続)

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2000年5月

続々・美しく老いる?
 こうして私は某大手のエステサロン『池袋支店』へ出かけて行った。何をするにせよ、結局いつも池袋あたりで事が済んでしまう自分のローカルさは不甲斐なくもあるが、「家から近くて便利」という利点はあなどれない。ただし人間の心理というのは不思議なもので、自分が池袋より更に東北地方の山手線から遥に外れた場所に住んでいるにも関わらず「たかが池袋のエステサロン、出てくるエステシャンは体育会系の、一歩間違えば接骨院の看護婦みたいな人に違いない。」と高を括っていた。ところが説明のために現れた店長はほっそりとした体型とキリリとした細面、髪は美人ならでは出来る顔面丸出し・束ね髪である。おまけに殺し文句は『私,お客様と同じ年ですよ』。そうか。聞くところによると彼女は20代の頃精神的ストレスから大いに太り、ダイエットを繰り返しては失敗し自殺まで考えたのだが、どうせ死ぬ気なら何でもできると貯金をはたいてこのエステヘ来たそうな。そして別人の様に美しく生まれ変わった彼女は今度は人を助けたいとエステシャンになったのだと。私はその話にも感動したが意外な低料金にも感動して40回コースに契約をした。
 エステでの基本行程はまず個別温熱ベット上での全身オイルマッサージである。これで代謝を促した後はビニールシートを幾重にも巻かれて20分ばかり蒸し焼きにされる。するとおびただしい汗が出て憎き体脂肪等の老廃物を排出するというわけだ。この他、その日によってマシン類を使った様々な処置が行なわれる。このこと自体には何の不服もないのだが、私はある時とても重要なことに気づいた。マッサージをするエステシャン、およそ20代前半の人が多いのだが、この者たちが揃いも揃って下手なのである。一応東洋医学に基づいたリンパマッサージなどと言っているが「私のリンパはそんなとこにはない」と言い切れるほどツボから遠く離れた場所を気紛れに押したりつねったりしているので翌日は腕や肩にアザが残る。職業上薄物のドレスを着ることも多いのでこれは大変困る。私は例の美人店長にこのことを告げた。すると店長は「それでは上手なエステシャンにやってもらいましょう。」と言い、次回は大変上手な人が何処からともなく現れてマジックハンドぶりを披露した。こんなことなら最初からこうしろよと私は密かに思ったが口には出さず、何故この人のマッサージが上手いのかを真面目に考えた。身体のことを話す時、よく『気の流れ』などと言うがこのエステシャンの指先からは何やらそんなものが流れて体内に浸透して来るようなのである。そう言えばこれは音楽にも言えることだが、上手なミュージャンの出す音はどんなに大きくてもうるさくない。どんなに小さくても聞き取れる。どこかに自然な息の流れがあるのである。大げさに言えば、自分を地球の成分のひとつと了解していて調和を取っているとでも言おうか。余談だが、ミュージシャンはソロ活動系より合奏系の人に良い人が多い。それもビックバンドのような大所帯を経験しているかいないかでは随分質が変わってくる。ボーカルもしかりである。コーラス経験のある人の方が(例えば私。)性格は良い。(仮説だが。)兎に角、そのエステシャンは上手かった。ただし、その後姿を見ない。一回きりである。
 それからも不思議なことは次々と起こった。蒸し焼きにされている最中に物を色々売りに来るのである。このローションを塗るともっと効果的だ、と言つて来た時は心底驚いた。牛乳びん位のボトルのローションが一本3万円と言う。それも身体の部署によって使い分けるので5本必要だと。私はすかさず言った。「私は肉屋の標本ではない。身体をヒレだのロースだの部分分けされるのは嫌である。ましてや腕と背中の境界線は何処なのか。境界線で混じり合ったローションはどうなってしまうのか。」エステシャンは黙って引き下がり二度とローションの話はしなくなった。ところが次には「新しいおコースができましたので加えてお入りになりませんか。今度のおコースは手の平を使ってマッサージいたします。」私は言った。「今までは足でマッサージしてたのか。」この話もこれきりになった。その上新しいおコース(この人たちは何故か「コース」に「お」を付ける。当然「ソース」にも「お」を付けるんだろうし、「ニュース」にだって付けるだろう。)ができる度に「本日半額のチャンスの最終日です。」と言う。何故私が来る日は必ず最終日なのか。私が締め切りに強いとでも思うのか。この話も指摘すると二度と口にしなくなった。あっさりと引き下がるのである。面白いほどだ。私は、この禅問答、行く手に現れる妖怪をひとつひとつ退治しながら旅を続ける孫悟空のような気分で蒸し焼きにされるのである。こんなことで美しくなれるのか。答えは当分出そうにない。

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2000年6月

頑張れ ジャパニーズ!
 日本人野球選手が大リーグで活躍する姿も珍しくなくなってきたか、報道番組などで時々その映像を見るにつけ、体格といいプレイといい、アメリカ人に全然負けてないじゃんなどと心から感動する私なのである。パリコレにスーパーモデルとして日本人が出る時なども同じ感動を覚える。日本に居ると国籍不明なイメージのモデルが、どこから見ても黒人でも白人でもない黄色人種の魅力をたたえてステージを闊歩する姿は誠に胸がすく思いだ。親戚でもなけれぼ縁も所縁もないこの人たちに応援の旗を振るこの気分、これはいったい何なのだろうか?オリンピックとはまた−味違った海外進出。私はかつての松田聖子ちゃんにだって旗を振ったし、今はアスター饅頭のキヤラクターみたいな工藤由貴ちゃんだって応援するのである。「頑張ってほしい。」何故か?何故なら大和民族はさかのぼればヒミコの時代から何となく海外に比べて分が悪い。いつもどこかの何かを真似たり貰ったりしながら進化してきたからかもしれない。絶対対等にはなれないんじゃないかという不安が遺伝子の中に組み込まれているようにすら思う。特に体力や外見など比較的優劣がつき易いジャンルでそのハードルを軽々と超えているように見える人たちはかっこいい。ところで歌のジャンルでは世界のスーパーウォ一カルになった日本人は居るのか?
 さて、本日の本題はここである。いや、まいった。先日フィリピン民族二人を含んだ私たち総勢6人のコスペルコーラスチームのライヴが行なわれ大変な反響を呼んだのである。驚いたことには大阪のブルーノートにツアーをしませんかなどと言われたりもしたのだ。ブルーノートというのはご存じの通り、アメリカの高扱ジャズライヴハウスで日本には東京、大阪、福岡に支店がある。東京のプルーノートには海外のアーティストのみが出演する。それも歴史に残るアーティストばかりである。それに比べて大阪支店は日本人も含めてバラエティーに富んだ出演陣らしいが、それだってブルーノートに出るということはプロフィールに一行書けるくらい名誉なことなんである。それが実現するかどうかは兎も角、我々のライヴは荒削りながらも大変将来性のあるものだったらしい。その理由は私のMCの面白さなんかではない。理由の95%はフイリピン民族の歌の上手さに負うのであった。二人のうちひとりは私の町内会友達のジェイという男である。南国育ちらしい愛嬌のよさと調子のよさで人に愛される幸せ者だ。もう一人はチャリートという、かれこれ20年日本に暮らすその筋では有名なジャズウォーカルで英語の歌の技術においては日本一だろうと思われる。この二人の『声』というものが日本人とは全く違うのである。違ったって構わないが何せ「強い」「しなやか」「ダイナミック」と日本人が中々持てないものを自然に備えている。例えば私が何年かけて練習しても身に付かないものをこの人たちはいつの間にか持っている。世界には大声の民族というのが居て、それは草原に住む人だったり、またはイタリア人や韓国人も喉は強い。だが本能的音楽センスに恵まれているのはやはりアフリカ民族とユダヤ民族とフイリピン人だろう。彼らに言わせればフィリピンにだって音痴は居るらしい。逆に希少価値である。だが、どう転んでも彼らは歌の女神に微笑まれているとしか思えない。彼らと一緒に歌っていると私は何だか自分がか弱い羊にでもなった気分になるのである。ひたすらメエメエ鳴いているような情けない気分なのだ。歌は『声』だけではないとも言えるが、少なくとも『歌』である以上『声』で始まり、『声』に終わるのである。どんなにスポーツが好きでも誰もがオリンピックに出られるわけではない。としても、取り敢えず対等の立場でブルーノートに出演できなければご先祖様に顔向けできないというものだ。こんなことなら先祖はとっとと音楽的優秀民族と混血を繰り返しておいてくれればよかったのだ。子孫のための読みの甘い先祖たちである。か弱い羊は果たしてユニコーンくらいにはなれるのだろうか。大和民族なりの強くてしなやかな『声』は私の身体の中にあるのだろうか。何より自分に旗を振りたい今日の私である。

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2000年8月

ワーカホリックの休日
 7月に、この仕事を始めてから恐らく初めてであろう『自分で10日間の休みを取る』という快挙をなしとげたのである。というのは休みたくなくても仕事が入らないため結局毎日が日曜日だったこともあるので、この『自分で』というフレーズは私の人生の歴史の中で大変華々しく後光を放っている。何とささやかな人生であることか。事実休みを取ると言ったってプロダクションからボーナスをもらって充電期間に入るわけでもなし、ただ、かかってくる仕事の依頼の電話に「すいません、このあたりお休みいただく予定なんです。またよろしくお願いします。」と身体を2つ折りにして丁寧に受話器を置く、という動作を幾度かしたまでのことであり、私が休もうと、滑って転ぼうと、世の中には何の影響もない。
 さてこの休暇は3カ月も前から企て楽しみにしていたものだった。当初は8月あたり1カ月くらい日本を離れて音楽大学の外人向けサマースクールにでも参加しようと前向きに考え、留学に詳しい赤坂にある「栄陽子留学研究所」に出かけて行った。どうせ行くならそこらの雑誌で同人を募っている怪しげなツアーに参加するのも嫌だななどと気持ちはすでにキャンパスを闊歩していた。「栄陽子留学研究所」はどっかの薬屋みたいにフルネームの看板で商売をしているわけだし、実績もあると聞いていたので私はためらわず登録科の1万円を払い、こちらの希望を言い、然るべき情報を提供してもらうつもりだった。ところがそういうサマースクールはあるにはあるがヴォーカルコースは無い上、やはり留学というからにはいくら短期でも3カ月は行かないと、とあっさりしたものである。ならばドラムだとかトランペットのコースでいいかと言うと、確かに少しは面白いかもしれないが、自分の専門としてはちょっと違うような気がしたし、第一、3カ月も日本を離れてしまっては、私を忘れるお客はつらくないが、忘れられる私はとてもつらいので絶対に嫌だった。私は食い下がった。「そこを何とかなりませんかね。」すると相談員は言った。(栄陽子女史本人は大変忙しそうにあいさつだけするとすくどこかへ行ってしまった。)「お料理とかお菓子づくりの学校ならあるんですけどね。」あんた人の話を聞いてんのか。私の留学熱はここで一気に冷め、それでも休みだけは取るぞと固く心に決めながらそのまま重い荷物を引き摺って仕事場へ急いだ。
 そもそも何で私はそんなに休みたいのか。世の中のサラリーマン始め大抵の労働者はもっと働いているではないか。朝早くから深夜まで仕事の続きにお酒があるような過酷な労働をしつつ、いったいどこで休みを取るんだろうと思うほどの馬車馬並みの人もたくさんいる。中には「仕事中寝てますから夜は元気です。」などと言っている輩もいるが、これはあながち嘘ではないと思う。さもなければ超人である。現に過労死なんてものだってあるわけだし。要はどれだけ緊張と緩和をうまく使い分けるかが仕事のポイントなのである。思えばフリーで仕事をしていると、どうしてもワーカホリックになる。『断る』ということがまずできない。極端言えば、一日仕事を休むと一生暇になってしまうような強迫観念に捕われる。その上大した仕事でなくても歌うことは楽しい。益々休みたくなくなる。矛盾だらけだが、「好き」を仕事にした場合の一種の職業病であろう。
 これはまずいと心底思った。周りには病気をしている同業者もたくさんいる。どこかで区切りをつけないと違う方向に行ってしまうような気がした。そこで留学騒動はあっけなく棚上げしたが、色んなライヴが一段落する7月に強行に休みを取ることにしたのである。外国へ行こうにも、それを計画する暇もなかったので結局いつもと何ら変わらない生活をしたわけで、珍しい海外旅行の話のひとつもしたかったのは山々ながら、健康診断に行ったり、ほぼ毎晩飲みに行ったり、バーゲンに出かけたり、よく眠ったり、何ともパッとしない休日であった。しかし不思議なことに、こういうパッとしない時に限って自分がやりたいことと、さほどでもないことが自然と明らかになってくる。そしてやはり私は仕事が好きなんだということも再確認できる。きっとこれからの仕事の方向づけになるんじやないかと思われる。どんなにストイックに仕事をしたって生涯家の一件も建つわけでないなら、健康を害してまで頑張る必要はないだろう。そんなことなら呑気に歌でも歌っているほうがよっぽどマシだ.しかしもしかして、それが私の職業だったりするので心中極めて複雑な思いである。

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2000年9月

DMの行方
 私は郵政省から表彰されたい。なぜなら日本の一般市民がー生を通じて出す郵便の数をはるかに上回った郵便物を投函しているからである。かれこれ10数年くらい前からだろうか、シャンソン歌手がこぞって自分のスケジュールをお客さんに送るようになった。あのころはバブルのどん詰まりの時期で、増えすぎた社交場が増えすぎた歌手を抱え、次第に減りつつあるお客の獲得に躍起になつていた。歌手のほうも歌手のほうで、止せばいいのに大きなホールを借りて大々的なコンサートをやる甘い習慣を忘れられずに客席を埋めるために必死になっていた。(不思議なことに大ホールでリサイタルをする習慣はシャンソン歌手だけのものである。ジャズ歌手の場合はよっぽどの場合を除いてそんなことをしようとは思わないらしい。日頃出演しているライヴハウスで充分事足りているということか。)よっしゃ、よっしゃとばかりに何百枚もチケットを引き受ける怪しげな会社の社長が影をひそめ始めていた頃の話だ。だから尚のことお客をDM責めにして集めようという意図があちこちに充満していたものだ。E−MEILも携帯電話もまだ登場してはいなかった。
 私はバブルの時期はレッスンに明け暮れる身分だったので、さほどのおいしい思いも体験せず、しかし何故かスケジュールを送る習慣だけは先輩から受け継いでいた。最初はハガキで数名の人に出すだけだったが、次第に名刺をくれる人には律儀に毎月封書を出すようになった。そんなことが何年か続いただろうか。ある日私はハタと気づいた。こんなもん出しても何の効果もない。時には長年会社当てに出していた人のその会社がとっくに無くなっていることが分かったり、下手すると当の本人が死んだりしている場合もあった。その上明らかに開封もせずに捨ててるなと思われるほど話が通じていない輩も居た。私は考えた。これでは地球の紙資源を無駄遣いしているにも等しい。罰当たりなことだ。それに郵便屋さんがいくら給料制だからといっても、こんなことのために働くのは労働力の無駄だ。私はどこまでも思いやり深かった。しかし何より嫌だったのは郵送費が嵩むことだった。こんな馬鹿馬鹿しいことはとっとと止めよう、と思ったある日、どうせ開封もされないのならこの際好き勝手な雑文でも入れて送ってみるか、と半ば開さ直った気分で最後のDMを投函した。ところがである。各方面から文章の感想を言ってくるのである。何だ開封してたのかと、私は心底あされた。こんなことなら雑文さえ入れれば反応があるんじゃないか、とDMはその後も続行されることになった。しかし今度は別の弊害が持ち上がるのである。文は読んでもスケジュールは読まない。とはっきり言う読者の皆様が出てきたのである。その上「あなたは歌より文章の方が上手い。この際歌は止めて文筆業に転向したら。」などと人の人生を気楽にアドバイスする読書も現れた。こういう人に限って自分は死んでも転職しないものだ。何をするにも一筋縄では行かない。がー方で私のステージに、より理解を示す読者も増えたのである。これは何より嬉しいことであった。DMは今や私の最大の趣味兼幸せの源となったわけである。
 しかし最近ではパリコンの普及から郵便よりE−MAlLで送ってくれという人もいる。封を開けるのが面倒だそうである。世の中急激に変化しているのである。私は機械音痴であるので今だパソコンは恐怖だが、携帯電話に繋いだ端末機でE−MElLくらいはやる。ところが先日私の端末機はパタとも動かなくなり、修理に出すと「全てのアドレスは消滅いたします。」と言う。ほれみろ。機械は機械でしかないではないか。そういう訳で皆様からいただいたアドレスは全て消えたのでこざいます。だからアドレス登録のためにどうぞ私にメールをください。
ついでながら私にだってホームページがあるのだ.私は見たことはないが、律儀な知人が作ってくれている。
 さて、今月青山マンダラでの2回目のソロコンサートがある。毎月のDMに加えてコンサートともなると1000通からのハガキを出す。ちょっと変な顔だがが、デザイナーがきちんとハガキにしてくれるのだ。この選ばれた1000人の中からいったい何人の人が来場して<れるのか。私はハガキを入れたばかりのポストに手を合わせてお祈りする。どうぞ一人でも多<の人が来てくれますように。私はキリスト教を信じているが、こうなりゃポストでも拝むのである。日本人の便利なところはこれだ。郵政省から表彰されるまで私は投函し続けねばならない。だから皆さんきっと来てください。9月28日です。

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2000年10月

続・DMの行方
 私がライヴの度に1000通からのDMを、郵政省から表彰されることもなく出し続けてきたことは先月のDMにて明らかになってしまった。自分としては、こうした地道な努力をする私を素晴らしい人間だと、もちろん思っている。しかし、角度を変えて考えると、こんな努力を10年も続けなければならない、つまりここまでしてもちっともお客が増えていない現状というのが浮かび上がってくるのである。
 事実先日行なわれた青山マンダラでの今年2度目のライヴ。この日の動員はヒヤヒヤものだった。チケットの予約の気配が薄いまま当日を迎える恐怖を、世の中の人々は一生のうちにいったい味わうことがあるのだろうか。さすがの私も危機感を覚え、気のおけない人にはお願いしたのである。「是非、太った人を連れてきてほしい。こうなりゃ人数より体積で空間を埋めたい。」またこうも言った。「等身大ハリボテ人形の持ち込みも許可する。自分の隣の席は決して空席にしないように。」中には親切な人がいて、「ならば佐藤製薬のサトちゃん人形(ゾウ)とか、コルゲンコーワのケロヨン(カエル)などを店頭から失敬して椅子に座らせてはどうか。」「ケンタッキー・フライドチキンのカーネル・サンダースおじさん人形を立たせておいてはどうか。」「公衆電話もいいかもしれない。」「座高の高さなら扇風機がふさわしい。かつらと帽子を被せておけば後ろから見る限り人が座っているように見えるはずだ。その上首振りにしておけばリズムを取って楽しんでいるように見える。」見えるか。そこまで考えるなら何故友達を連れて来ない?会場がそんなものだらけで埋められていたら、それはライヴハウスではなく蝋人形館である。ステージなんかよりよっぽど見栄えがする。考えただけでも恐ろしい。その上当日私の事務室には次々と本日行かれない理由やら謝りやら、でも頑張れやらのFAXが入るのであった。おかしい。何かが違う。私が歩んできた道は何処かが間違っている。だいたいお願いしなければ人が集まらないなんて変である。きちんと成長しているアーティストなり劇団なりは、仮に最初は無名でも知らぬ間に動員数が増えて会場は膨れ上がっていくものなのだ。観客は数ではないのも事実だが自然に増えるのも観客なのである。もう10年こんなことをやっているのである。ライヴを控えてデリケートになった私の心は珍しく反省を試みていた。
 ところが実際始まってしまうとコンサートは楽しい。会場だって取り敢えずは満席に見える。心配した人たちが何とか頭数を掻き集めてくれているのである。いきなり幸せな気分になってしまう。これでいいような気にもなる。確かに私の出した1000通のDMのほとんどは資源の無駄遣いになったわけだ。だが笑わせてもらったのはライヴ中に、ある「郵政大痔」と名乗る明らかに郵政大臣とは別人の観客から表彰状が届いたのである。長年私が無駄なDMの配送の仕事を与えたので郵便屋さんのリストラを食い止めたというのだ。こういう解釈もあるのか。私のライヴの観客には変な人が多い。それを言ったら終わりだが。無論出しものについて良いの悪いのという意見もたくさんもらう。ある60代男性グループの一致した意見に「オリジナルのような自己満足なものをやるより、皆の知っている曲を選曲すべきだ」というのがあった。う〜ん。恐るべきや、シルバージェントルメン。それもよくわかる。ただそれはライヴの本筋ではない。そしてここはパーティー会場ではない。知らない曲でも感動させられるかどうか、問題はそっちである。もちろんお馴染みの曲をいかにもっと良く創るか、課題は多い。私にそれができていないということなのかもしれない。だが、だからこそライヴである。出演者も観客も保身ばかりではいけない。不思議と女性客からこういう意見はほとんど出ない。愉快だ。そして私はもう次のコンサートのことで頭が一杯になる。いい加減無駄なDMの数を減らしたいのだが、一体誰を減らしたらいいのか分からないので、またしつこく投函してしまうのだろう。というわけで年内の楽しい楽しいコンサートは以下の通りです。

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2000年11月

おお、ハナヤシキ!!
 今月は先月 10月31日に突発的に出演することになったNHKラジオ放送の話をしようと思ったが、("ふれあいラジオパーティー"「秋の夜長にアコーデオン」で、アコーデオニストの横森良造さん、数学者の秋山仁さんと共にアコーデオンについて品良く語り合ったのであるが、急に決まったことなので皆さんにお知らせできなかった。あいにく。)それより数段衝撃的な体験談を語ろうと思う。
 私はディズニーランド周辺の公式ホテルでレギュラーの仕事をしているので、当然ディズニーランドの様子などよく知っている。自分でお金を出して行ったことさえある。好きでもないジェットコースターに、話の種にでもと行列を我慢しつつ乗り込み、大変恐い思いもした。何もかも人工的な商業の匂いを嗅ぎながら、何となくうさんくさい気分で一日を過ごしたことを覚えている。だいたい次から次へと過激度を増すアミューズメントバークのジェットコースター合戦はなんとかならないものなのか。中央高速を走った時とか、水道橋近辺を歩<時に見えるあの恐ろしげな乗物の類は「そこにある」というだけで私の健康を害する。何が嬉しくてお金を払ってあんな恐ろしい思いをするのか。そんな人は、地震が来たり地下鉄に閉じ込められたりするのも好きに違いない。
 さて、そんな私であるが、ある噂の誘惑には勝てなかった。浅草「花やしき」。昔からそういうものが存在していることは風の便りに聞いていたが、花笠をかぶった人が踊っている所だと思っていた。ところが聞き捨てならない噂が耳をかすめたのである。「花やしきではジェットコースターが民家の軒先を走っている。一般家庭の茶の間がのぞけるほどの至近距離である。その上民家の洗濯物が顔に当たることもある。」これは「花やしき」に行ってきた当時中学生だった少年がまことしやかに話したことだ。そのロ振りは嘘をついているようには見えなかった。行ってみたい!!私の思いはつのった。その上浅草に住む人々に知り合うにつけ一度は行くべきだ、とアドバイスを受けるのである。しかしこうした場所に40の女がー人で出かけて遊んでいるとしたら、それはやはり不自然である。私は機会を待った。いくつかのチャンスが訪れたが、いすれも実現寸前で没になった。ところがこの度めでたくその夢を果たしたのである。それも閉園1時間前に滑り込むという俊敏さであった。昼間にコンサートがある日なら夕方は暇になるはずだ。ということは一緒に仕事をしている出演者だってきっと暇になるはずである。その者を言葉巧みに拉致し、ドサクサに紛れて同行してもらうという手があるではないか。そして計画は成功した。私の頭はジェットコースターで一杯だったが、どうして、初めからそれどころではない衝撃が私を襲った。まず入りロにあるメリーゴーランドである。一見変哲のないメリーコーランドだが、中には白雪姫が倒れている。それもいかにも馬から落ちてくやしがっているとしか思えない。普通白雪姫という者は横座りをしつつ、手首に小鳥など乗せて楽しそうにしているものだが、ここではそうではない。私の胸は高鳴った。その上、パーク内の看板には矢印があり、そこには「バカ物館」とある。私の全身には震えが来た。しかし、まずはお目当てのジェットコースターである。ここで見たものを何と言おうか。確かにこの乗物は恐い。だが、恐くても我慢のしがいかある。何故なら本当に風呂屋ののれんを分け入ったり、晩酌しているオジサンの脇をかすめ通ったりするからである。ただ、オジサンが何を肴に飲んでいたのかはスピードが速すぎて見落としてしまった。ああ、時間さえあったならもう一度確認したのに。感動で足が震えた。そして、そのあと挑戦したホラーものも素晴らしかった。全然恐くないのである。下水道のようなところを走るスリラーカー、同行者が入るのを恐がったので呼び込みのお兄さんに付き添ってもらったお化け屋敷。ひとつも恐くないので私はお兄さんに「ねえ、これバイトなの?」などと聞きながら歩くと「少しは回りを見てください。」と注意された。バカ物館に至っては涙さえ出る。昔話に出てきた実際の小道具を陳列し、いちいちに解説をつけている。その小道具はどこから見ても普通の家にある青竹踏みなどではないか、と疑いがちであるが、それを立派な歴史的発掘品と解説し、しかし「ごめんなさい」などとあやまっている文もある。この日は時間の関係上ここまでで閉園になってしまった。私の胸には一種独特の感動が渦巻き、言葉では言い表せない喜びにあふれていた。きっとあるのだうう、この日見落としている数々のトリック。それに改めて出会いたい。誰か私と一緒に「花やしき」へ行きませんか?

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2000年12月

20世紀終わる、の巻
 ピンとは来ないが、歴史の教科書的には大変な時代の区切りなのである。明治維新が1868年であるから、つまりその後約140年たったのが現在というわけだ。140年前ヘタすると我々のヒイおじいさんはチョンマゲをしていたのである。めまいがする。100年間なんてあっという間だと思うが、それにしては状況の変化はすさまじい。
 私が関係したものの中で変わったなあ、と思うものはやはりライヴハウスである。。昔は名曲喫茶なりジャズ喫茶なりシャンソン喫茶なり、どこでもいいが、そういった一種文化の先端を気取った所のオ−ナーや店員はものすごく威張っていた。私も覚えがあるが、「銀巴里」という10年前に無くなったシャンソン喫茶ではお客より店員のほうが偉かった。ましてや新人の私など士農工商のうちにも入らなかった。一番恐いのが入り口に座って入場料を取っているオバサンだった。入り口で飲物の希望を告げるのだが、(コーヒーだとかジュースだとか。)声が小さいお客は常に怒られていた。昨年無くなった「ジァンジァン」だってずいぶん威張っていた。お客からの電話には実にそっけなかった。初めて来るお客が「道がわからない」と電話してくると怒りながら教えていた。もうちょっと何とかならないものかなあ〜と残念に思ったこともしばしばだったが、あいにくどっちも今はもう無い。ただし不思議なことに愛想の悪い彼らも実はすごくいい人なのである。恐らく昔のライヴハウスは音楽を聴く姿勢みたいなものを教育する役目も担っていたんじやないかと思う。私も学生時代、ジャズのレコード喫茶に行った際、ちょっと隣の人としゃべっただけで運動靴を履いたウェイター(足音がしないように履いているのである。)から泥棒呼ばわりされたことがある。恐ろしい時代だった。それでもお客は腹を立てるどころか、深く反省して心を入れ替えたり、生まれ変わって出直したりしていた。
 ところが次第に様子は変わってきた。娯楽の量も質も上がるにつれ、お客が選ぶ権利を手にしたのである。ライヴハウスは今や何処も瀕死の白鳥状態である。むやみに威張ったツケが回って来たのだと私は思っている。それでもまだ威張り続けているところもある。先日岩本町にある某ライヴハウス(名前はTUC)から、日本では全く知られていないが素晴らしいジャズ歌手をアメリカから呼ぶので、勉強のために見に来たらどうか、という大変親切なお知らせをいただき、予約を入れてから出かけて行った。午後1時半からのステージなので1時25分頃会場に到着した。すると不思議なことにコンサートは既に始まっていてお客もぎっしり座っている。時計が狂っていたのかと思い、空いている椅子に小さくなって座り、大人しく聞いていると、ものの30分程度でコンサートは終わってしまった。確かお知らせには90分ステージと書いてあったはずなのにおかしい。私は偶然傍にいた知り合いに事の次第を問うと、彼女が1時に来た時には既にコンサートは始まっていた、と不思議がる。他のお客の頭にも???が浮かんでいるようだった。私は勇気を出して店員に理由を聞くと、店員はものものしく責任者を呼びに行った。出てきた責任者はものすごい形相で「急に変更があったんだから仕方がない。私のせいじゃない。気に入らないなら金はいらない。」と威張っている。私も知り合いもこれには驚いた。するとこの馬鹿野郎は続けて言った。「それでも気に入らないならオトシマエに5万でも10万でも払ってやる。」と興奮している。今思えばその時何故10万もらって帰って来なかったのかと悔やまれるが、その時はあまり馬鹿馬鹿しかったのと、咄嗟に「でも、領収書は何て書くんだろう。『オトシマエ料として』だろうか。」とチラと悩んだりしたこともあって黙って引き下がってしまった。信じられない話だが、舞台がライヴハウスとなると有りうることだ。特にジャズライヴのオーナーはミュージシャンになるのを諦めた人が多いので、好きな仕事をしている割りには屈折したりしている。ストレスはお客や出演者に当たって晴らす。お客もそれに慣れている。今時珍しいが、まだそんなことをやっている所もあるのである。
 その反対にどこまでもお客様本位の所もある。ライヴハウスとは言えないかもしれないが、私が今出演している某レストラン(名前はU's)などは若者でよく賑わっている。音楽も好きなようである。理想的なことだ。ただし、仮に団体客が騒ごうと演奏中に帰ろうとおかまいなしである。それがどんなに演奏者をがっかりさせるかなどと想像するつもりはハナからない。私は時々騒音で自分の声が聞こえないことすらある。静かに聴きたい人には迷惑千万である。お客の少ない時が嬉しかったりする。本末転倒である。それでもお客が居ないよりはいいかとか、これがこれからの時代のやり方なのかとか、自分なりに納得しようとしてはいるがどうも釈然としない。わずか20年の間にライヴ事情は大きく変わった。変わらないのは自分の実力だけだということか。来世紀はもっといい環境で仕事ができるように力をつけるしかなさそうである。

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