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竹下ユキ エッセイ2003 2003年1月 アダムス25周年にあたって。 2003年2月 新春娯楽三昧 2003年3月 表現の自由 2003年3月 続・表現の自由 2003年5月 最近私はこれに凝っています。 2003年6月 発想の転換 2003年7月 続・発想の転換 2003年8月 大道芸はどこへ行くのか 2003年9月 続・大道芸はどこへ行くのか 2003年10月 続々・大道芸はどこへ行くのか 2003年11月 嬉しや楽し。国外脱出紀行 最新エッセイ |
2003年1月 アダムス25周年にあたって。 シャンソニエと呼ばれるライヴハウスであるアダムスが今年25周年を迎える。シャンソニエというのは、昔あったシャンソン喫茶「銀巴里」に代表されるような、フランスの文学的な歌を日本語に訳した歌を生で聞く酒場のことを指す。昭和時代には、歌手の歌を目の前で聞きながら、映画に出てくるパリの街角を思ったり、人生の不条理を歌った歌などに涙したりする雰囲気があり、小さくて暗い酒場であるほど、いい雰囲気を醸し出していた。大晦日にNHKの紅白歌合戦なるものをチラと見たが、ああいうゴージャスを売りにするエンターテイメントとは全く逆の、実にしみじみとした場所なんである。私もかつてはバックコーラスで紅白に出たことがあるので、何とも言えないが、あの場面から派手なダンスや舞台装置を取り除いたら、いったいどれだけの価値が残るだろうかと思っている人は多いと思う。芸事には足していく作業と、取り除く作業があるような気がする。そして、シャンソニエはあらゆる虚飾を取り除いた場所である。伴奏楽器といえばピアノ1本がせいぜいだし、照明も音響もそのスペースにやっと間にあう程度である。だからいい加減な歌であれば、すぐボロが出るし、ボロの出し放題ならば、その場所そのものが崩れていく。 アダムスは、早瀬かず椰という、25年前までは流行歌手をやっていた人が経営する。彼は美空ひばりなどの曲をとても上手に歌うが、自分の店で歌うことはしない。歌手が店を持った場合、自分の発表の場にする人が多い中、この人はメジャーの世界で納得いくまで戦った後に今の世界に身を投じたので、自分の店の土俵を貸している歌手の中に混じろうとは思わないのだそうである。かっこいいと思う。誰しも、自分がちょっとでもできることは、つい人前で披露したくなるのが普通だが、彼は経営者に徹している。 今のアダムスはずいぶん綺麗になったが、私が初めて出演した10年ほど前は、新橋の小さな雑居ビルの地下にあり、トイレは他の店と共同だし、天井裏をネズミは走るし、いくらシャンソニエだからってここまで汚くて狭い必要があるのか、と思ったくらいだ。まだ、景気のそんなに悪くない時期だったが、そもそも飲み代も安いので、お客さんが入りきらないことで、早瀬氏としてもずいぶん悔しい思いをしただろう。今はそのころよりずっと広くて綺麗だが、その代わり時代は確実に厳しくなった。 25年という年月を考えた場合、景気だけでなく、音楽の趣味やら時間の使い方やら生活の価値やら、あまりの変化に付いていけないことがある。今だに聖子ちゃんカットをして、ハマトラファッションに身を固めている、私と同世代の女性を万が一にも見かけると、懐かしさと同時に、いったいこの人はここ20年間どこでどうしていたのだろう、という思ういが溢れてくるが、それにしたって、もし時代の流れがこれほど早くなければ、聖子ちゃんカットが悪いわけでもなし、特別変だとも思わないだろう。しかし、日本はわずか150年前はチョンマゲなわけだから、うかうかしていると、タイムカプセル人間になってしまうというわけだ。同じようにライフスタイルも小刻みに変化する。外タレや有名人ならいざ知らず、日常の中で人の歌をわざわざ出かけて悠長に聞くという習慣は、結局定着してはいない。だから、ライヴシンガーのほとんどが無名であるし、市民権を得にくい。 しかし、そこにある真実に耳を傾け、それを信じて場を経営している人もいるのである。今のアダムスはどう贔屓目で見ても昔よりは大変だろうなと思う。しかし、その反対に、世の中が大変だと騒ぐほど大変ではないような感じもする。それは彼が時代に踊らず、来るもの拒まず、去るもの追わず、自分の信じる歌の世界をしっかり守っているからだと思う。その理由は何かな?と時々考える。恐らくそれは彼が何より歌を聞くのが好きなこと、そしてお客さん相手の商売に向いているからだと思う。努力という言葉は素晴らしいが、そこに悲壮さが漂っては、我々の仕事は続かない。何より、好きで楽しくて、苦労をあまり苦労とも思わないこと。これが「向いている」ことなんだろう。どんなに経営の手腕があっても歌が好きでなければこんなことはできないだろうし、人は何かを始める初っ端や、あるいは調子のいい時は上機嫌だが、ひとたび形勢が崩れてくれば、止めてしまう方が楽なのである。 と、いうわけで、そのアダムスの25周年記念コンサートが来たる2月8、9、10日にあります。私は最終日の10日(月)に出演しますので、みなさん、ひとつの真実を見に、聞きに、是非是非いらしてください。紅白歌合戦に劣らない、素晴らしいシンガーたちの歌が一挙に聞けますよ。お申し込み、お待ちしていますね。(TEL&FAX03-3932-6371)今年はより一層歌が好きになりそうです。わくわくしてます。どうぞどうぞよろしくお願いします!! 2003年2月 新春娯楽三昧 某日 サントリーホールにウィーンフィル抜粋9人による新春コンサートに出かける。しかし、クラシック音楽は、日頃「電源命!」で仕事してる私の耳には、何と小さく、上品に聴こえることか。耳を澄ますようにして聞き入ったが、「天国と地獄」とか「皇帝円舞曲」などのお馴染みの曲が心地よい。途中フルートの人が、アラブの商人の扮装をして笑いも取るし、客席サービスも忘れない。白人独特の身に付いたユーモア感覚は、我々が学ぶべきものかも。コンサートの帰りにエスカイヤクラブで食事。音響が悪いので、弾き語りのお姉さんの歌が増幅されて恐ろしい。時にマイクは無いほうが有難い。仕事場に来たみたいでチト落ち着かない。 某日 歌舞伎座に新春大歌舞伎を見に行く。成人式に作った着物をワンピースに仕立て直してもらって、ハイヒールと合わせて着ていくが、何だか変だったかも。周りの人が不思議そうに見ていた。でも、見られるのには慣れているのでさほど気にはならない。どこまでも強気である。出し物は「寺子屋」「保名」そして「助六」。歌舞伎を見るのは高校生の時以来だった。あの頃の「海老さま」が今は「團十郎」に変身し、息子さんが大河ドラマの主役である。こっちも年取るわけだ。團十郎・幸四郎・玉三郎・菊五郎・三津五郎・左團次・松緑・・・とまあ、何と華やかなことよ。しかしこの日は初舞台を迎える大谷廣太郎君と松君のお祝いに行ったのだった。歌舞伎の世界はこんな小さな子供がしっかり働くんだから流石だ。助六の中で花魁が総出演する場面は圧巻。国宝級のオカマショーみたい。凄まじく豪華な衣装も見られたし、今年はいいことあるに違いない。 某日 同じくサントリーホールでグッチ祐三さんとハリウッド・オーケストラのショーを見る。何を隠そう、私はグッチさんの大ファンである。クレイジーキャッツとも米米クラブとも違う音楽エンターテイナー。おしゃべりも適当に毒舌で私好み。踊りも上手いし、歌もいい。もうちょっと顔がいいともっといいのに。ただし、やはり彼自身のバンドでやるショーの方が数段素晴らしい。企画としては変わってていいのかもしれないが。 某日 全員名前が「ユキ」ということで「3ユキちゃんズ」なる3人は、今年初めてのツーリング。まずは京橋で有名なイタリアンレストラン「ラ・ベットラ」でランチ。素晴らしいお味と丁寧な店員さんにすっかりファンになりました。マスコミに売れても、シェフは毎日自転車で築地に買い物に行くのだそうだ。いい仕事はマイペースでやるものなんだろうな。それからテアトルシネマにフランス映画「8人の女たち」を見に行く。映画館に行くのも久しぶり。大して混んでもいないのに、整理番号順に入場。10人ずつ区切られて有難く入らせていただいたが、場内はガラガラ。何が嬉しくてこんなに大げさにすることよ。映画自体はほとんど意味不明といっていいだろう。一家の主がたった今死んだというのに、女たちは歌ったり踊ったりしているし。どこもかしこも変である。しかし、つまらないのか、と言ったら大変面白い。笑える。何よりカトリーヌ・ドヌーヴ、エマニュエル・ベアール、ダニエル・ダリュー、ファニー・アルダンと来れば迫力満点。フランス映画らしく画面も美しい。大変中身の濃い一日であった。女性同士のツーリングは実に前向きである。 某日 浅草で芸者遊びをする。荒川立教会という遊び人の方々に混じって、綺麗な芸者さんに遊んでもらったのである。獅子舞のお獅子は千円札を食べさせると、5円玉の付いたご縁鈴を、私にだけ2つもくださった。単に獅子の中に入ってる芸者さんがうっかり間違えたのかもしれないが、これは何かよいことの前兆である。お座敷遊びは結構反射神経を必要とする。金毘羅船船の歌に合わせて、2人組になって、座布団の上に乗せた積木のかけらみたいなものを取り合いながら、相手のフェイントを突くのである。私は歌手だから、当然リズム感も良いし、さぞや勝ち進むだろうと誰もが思ったに違いないが、ところがどっこい運動神経は鈍いのである。私が反射神経がよかったら、たぶんシャンソン歌手として出発したりしなかったと思う。お座敷遊びは負けると日本酒が待っているので、お酒好きには恰好の遊びであろう。 某日 雷門で食事をする。古い洋食屋でカウンターに座った通なお客さんのジャズの話など聞きながら、昭和時代に戻ったような気分に浸る。浅草の夜は早い。8時にはもう仲見世は店仕舞だ。店の主たちはそろって高齢化している模様。 2003年3月 表現の自由 小学生の学芸会に文句を付ける人はどこにもいない。善意に解釈すれば、それが表現の自由の始まりである。ところが、一旦それが「芸の道」とやらになると、そこには、深く険しく長い道が待っていて、自分の才能や、持って生まれた「華」の量みたいなものと常時話し合い、戦いながら、続く人は続くし、そうでない場合は止めたほうがずっと懸命だ、ということに気づくのだと思う。確かにそのことに間違いはないと思う。しかし、最近の表現の自由は、そもそもそんな堅苦しい思いを払拭するほど、エネルギーに溢れている。 先日私は初めて「コスプレ劇」というものを見た。コスプレというのは、コスチューム・プレイ、つまり役になりきるために衣装の力を借りるパフォーマンスで、広くはデパートの屋上でやっている着ぐるみショーや、5レンジャーみたいな変身もの、怪獣ものをも含む。が、主にコスプレと言えば、アニメの登場人物などをかたどった衣装を着込むことを差す。着込んででどうするか、と言うと、ただそれだけで満足してマニアの集まりで写真を撮り合ってお仕舞い、という場合もあれば、戦闘服を着て実際に富士山麓あたりで、「バキューン。バキューン。」「あれ〜〜。やられた〜〜。」などと叫びながら遊んでいるいい年をした男子たちもいる。いずれも自分が変身したいキャラクターの衣装を買ったり作ったりするところから事は始まる。だいたい変身したいキャラというのはその時流行っているアニメの主人公が多く、「ブースカ」とか、「ピグモン」などの全身かぶりものは少ない。なぜならそれでは誰が被っても似たり寄ったりになってしまうからである。大事なのは、飽くまでも自分の手足や顔を見せることなのだ。で、カツラと漫画チックな衣装と化粧で変身する、というのが特徴だ。人気があるのは何と言っても「美少女戦士・セーラームーン」。新しいところでは「ハリーポッター」などもある。 今回私の見たコスプレ劇はもちろん女子に人気の「セーラームーン」。可愛らしいカツラと衣装に身を包み、役に成りきり芝居をするのだ。十数名の女優に混じって男性出演者は約3人。その一人はオカマ役なので、実情は2人。その上何とその2人のうちの一人は、情けないことに私の友人だった。彼は普通のサラリーマンだが、オタクという言葉すらなかったころから筋金入りのオタクで、クラシック音楽からコミック同人誌まで知らないことがないくらいの変な人物。そこに目をつけた私はかつてジァンジァンでライヴをしていた頃、彼に魔女の衣装を着せて踊らせたり、ずいぶん役に立ってもらった。今年は40を越えるであろうこの特異な人物の晴れの舞台を、今回は感謝の意味も込めて見に行ったのだ。 場所は郊外の公共のホール。入場料は大人が800円だから、素人劇団としては妥当であろう。美少女戦士の名の通り、この劇は、美しい女子高校生たちが力を合わせて地球を守るために、高校の制服からブルマースの見えるほど丈の短い衣装に変身し、悪と戦うのである。しかし、何より驚いたのは出演者の凄まじい容貌である。今時、どこを探すとこういう女子に会えるだろう、と思うほどよく太り、容姿には全く無頓着。赤や緑や黄色のカツラを被り、歌ったり地団太踏んで踊ったりしている姿は、さながら女子プロレスであった。しかし、本人たちは相当嬉しいらしく、満足しながら演じていた。また客はどこから来たのか、題材に引かれて小さな子供連れの家族も多い。本来悪と戦う愛と友情の物語なので(ちなみに私の友人が悪役を演じた)子供にはためになる話であろうに、演技が下手なのと、途中で大道具が崩れ落ちて来たりするものだから、さっぱりあらすじが掴めず、何のことやら全く分からないうちに、終演した。 もちろん、素人の劇団なのだからそんなものでよし、という見方もできる。ところが、ここで私は異様な光景を目にするのである。それは客席に一人ずつ座っている、けして若いとはいえない不気味な男子たちであった。(続) 2003年3月 続・表現の自由 前回「表現の自由」と題して見聞録を書いたのだが、大変嬉しいことに、早く続きが読みたい、というご意見をたくさんいただいたので、時期を早めて配信いたします。余談だが、その中で一件だけ、変わった質問があったのでご紹介しておこう。 匿名の読者から、「40過ぎて、金髪のかつらを被って、ミスユニバースに毎年優勝するビューティーに扮してシャンソンを歌っているのは正常で、容姿が悪くて年取っている男が一人でコスプレの集会を見に行くのは異常なのか?」(原文通り)という質問をいただいた。「40過ぎて〜」というのは言わずと知れた私のことである。(注:毎年12月に荒川区で行うクリスマスコンサートは、1部がお芝居。2部が歌謡ショー。という日本の大衆芸能の伝統を受け継ぐ構成になっているのだか、この2年ほどは、カツラを被った大勘違い女「ビューティー」が1部の主人公で、それを演じているのが竹下ユキである。ただし、「ビューティー」は、ジャズは歌っても、シャンソンは歌わないので、あしからず。)そして面白いことに「容姿が悪い」とも「年取っている」とも全く書かなかったが、まるでそう書いた様に受け取られた「コスプレに一人で出かけていく男」とは、誰か個人ではなく、そういう群像とでも言おうか。で、この読者は、40過ぎて馬鹿なことをやってる私が、こうした男たちのことをとやかく言えるのか、と抗議しているのだ。考えてみれば確かにおっしゃる通りである。馬鹿さ加減はまったく同じであろう。誠に私が悪うございました。反省いたします。「ビューティーとオタク男」は「踊る阿呆に見る阿呆」と言い換えてもよいかもしれない。 が、踊る阿呆は生産的である。セーラームーンで悪役を演じたサラリーマンの友人は、休日返上で芝居の練習に出かけ、時には合宿までしてセリフを覚え、どうかしたのか、と思うほどの踊りもできるようになった。彼は「オタク道を極める」と豪語するほどのオタクだが、事実人前で表現するために身を削っている。一緒に演じていたセーラームーンたちも同様。ここに「踊らにゃソンソンの法則」が生まれる。 で、客席の話に移ろう。出し物の出典がアニメなので、子連れの家族が多くても何の不思議はない。事実一緒に出かけていった友人一家も小さな女の子たちを連れてきた。颯爽と前列から2列目を陣取った我々一行の更に前には、中央最前列を堂々と占拠する一人の青年がいた。中肉中背,メガネ着用、30歳前後。外国へ行くとよく目にする日本人観光客のイラストのイメージ。劇が進行するにつれ、すっかり飽きて落ち着きを失ってくる子供たちに対し、この青年の集中度は次第に度合いを深め、大道具が崩れ落ちてこようと、出演者のスカートがずり落ちてこようと、ストーリーに感動し、盛大なる拍手を送る。子供よりずっと童心を忘れていない。カーテンコールで役者が一人ずつ挨拶に出ると、全員の名前をコールし、「ありがとおっ!!」と叫ぶ。私はこの青年が不気味だったが、ある種の感動も覚えた。 しかし、彼は特別だったようだ。周囲を見回すと、カメラやビデオを構えた彼と似た感じの青年たちがポツリポツリと静かに座っている。アニメやコスプレ系の催しの大きな特徴は、会場内に肖像権が無い、という点である。つまり、写真だろうと録音だろうと、何でもOKなのである。その会場内に足を踏み入れる、ということは、舞台の上だけでなく、客席も含めて、どこを撮影してもよろしい。現代の治外法権がここにある。私は過去にステージに立っていたとき、最前列のお客さんがオペラグラスでこっちを見ていたのを見て、ゾッとしたのを覚えているが、足を上げてブルマースを見せながら踊る出演者は、どんな気持ちなのだろう。ふと見回すと、場内の子供たちの集中力は完全に途切れ、そこは大人のための空間になっていた。なるほど、コスプレというのは決して子供のためのパフォ−マンスではない。昔なら会員しか入場を許されないようなことを、公共の施設で白昼堂々やっている。これは闇黒に陽が差した、と解釈すべきなのか、あるいはモラルの麻痺なのか。 終演後はコスプレ特有の「撮影会」が行われる。200円払うとポラロイドで役者さんと一緒に写真を撮ってもらえるのだ。当然私も200円を握りしめて、撮影の列に加わった。自分でも不思議だった。何故この素人劇団の役者さんと一緒に記念写真を撮らなければならないのか?「何故だろう?」と私は後からやって来たコスプレの催しに慣れている友人に尋ねた。「この人たちが衣装を着てるからだよ。」と彼女は事も無げに話す。「だったら、役者は誰でもいいってこと?」「ある意味ではそうね。顔なんてほとんど見てないんだよ。」「じゃあ、私でもできるのかな?」「ああ、十分できるんじゃない?」そうか。このような衣装さえ着ればこうして確実なファンが追っかけてくる、というのは実に助かる。私もコスプレでライヴやろうかな。私の心はどんどん計算高く邪悪になっていた。ところが、一緒に行った子連れの家族は、「やっぱり、高いお金を払っても子供にはちゃんとしたもの見せないといけない、って反省したわ。」と言っている。しっかりした親がいる限り、私の目論見は成功しないだろう。残念である。(了) 2003年5月 最近私はこれに凝っています。 だいたい、夜の7時ごろから始まるような仕事をしていると、帰宅するのはおよそ午前様。お肌のゴールデンタイムは午前2時までだから、それ前には眠るように、などとどれほど美容関係雑誌が教えてくれようと、それを守れることはまずない。缶ビールと文庫本を片手にメールチェックやネットサーフィンなどしながら深夜はスルリと朝になる。 ところで、ある時インターネットにはオークションというのがあってこれが大変面白いと聞く。さっそくヤフーのトップページからオークション場面を開いてみる。ここは、プロ・アマがごっちゃになって、物を売るネット上の巨大マーケットである。売っているものといったら、日用雑貨、衣類、宝石、はたまた車、家、土地・・・・。何でもありなんである。試しにファッションというカテゴリーを閲覧する。身につけるものであるならば、頭のてっぺんからつま先まで何でも売っている。まずは値段とオークションの締め切り日時、それから商品の写真が説明付きで載っている。もちろん、明らかにプロだな、と思えるような品揃えの出品者も居れば、どこの家にもさほど活用されずに箪笥の中に眠っている衣料品はあると見えて、不要になったものの数々をドカドカと出品している人もいる。僅かなスペースに商品の全情報を載せるのだから、売り手も様々な工夫を凝らしている。なるべく商品が綺麗に見えるように、あるいはどれほどこの商品が素晴らしいかを文章で説明する。しかし、あちこちの出品を見回っているうちに私は面白い現象に気づいた。 自分の商品をより素晴らしく誇張して宣伝するのが、当然のやり方だと今までは思っていた。ところが、このオークションでは、何もかも正直に告白するのが鉄則のようである。「肘のところに少々の破れがありますが、あまり気になりません」ジャケットだとか、「ボタンが取れているのでご自分でつけて下さい」ブラウスだとか、誰がそんなもの買うか、というような正直な告白に感動して、ふと見ると、結構何人もの人が入札している。私はこの目を疑った。こんなことなら、「かかとはありませんが、まだまだ履ける」靴、とか「底は抜けていますが、十分使える」バケツとかも売っているんじゃないかと気になって、あちこちの商品説明を読みまくった。中には、何故自分がこの商品を出品するに至ったかを切々と告白する人もいる。「太ってしまって、これを着ると見苦しいので」(どれほど見苦しいのか、その写真が見たい)「せっかく買ったのだが、金欠なので泣く泣く出品」(人生を見る思いである)「もともとこのオークションで落札したが、自分の顔に合わせてみると、あまりに可愛らしすぎて情けないほど似合わなかった」(そういうことは誰しもあるので頑張れ)など、いちいち感想を言いたくなるようなコメントばかりである。特にびっくりしたのは「離婚セール」と書かれた商品である。「離婚をして今週中に家を出たいので一日も早く応対してくれる方に限ります」と書いてある。商品は冬物のコートで、写真で見る限り、どこでも見たことのないような素敵な色とデザインのものが、300円〜と書いてある。面白そうなので、簡単な手続きを済ませ、買い物の権利を得、300円で入札してみる。ついでにこの人が出品している他の商品も参照してみる。家財道具一式と言っては大げさだが、洗濯石鹸まで出品しているのには、かなり緊迫した離婚引越し場面を感じる。このオークションは、いくら商品数が多いとはいえ全国ネットなので、どう見ても正価7万は下らないだろうこのコートが300円で落札されるとは思えなかったので、それ切り放っておくと、間もなくヤフーから「おめでとうございます。落札いたしました。」というメールが送られてきた。信じられない。しばらくすると、その離婚の本人からメールが来て、お互いに住所などを交換し、私は代金を振り込み、すると商品が届き、実に迅速に取引は終了した。いわく付きではあるだろうが、この立派な300円のコートを眺めながら、まったく不思議な気分である。 これに勢いをつけて、元来喉から手がでるほど大好きな「被り物」方面に突入。様々な帽子を何十個と落札。現在は「これであなたも孫悟空」という意味不明な「カチューシャ」?に入札するかどうか思案中である。ますます夜は眠れない。 2003年6月 発想の転換 私のHPができてから2年半くらいが経つ。私がパソコンを持つようになってから約2年。それからは私もせっせと投稿し、こうして毎月みなさんに発送している雑文もHPに掲載してもらっている。そして、何とめでたいことに、今回で掲載作品は50作にもなる。もちろんあまりの駄作は載せていないので、実際にはもっと書いているのだが、いずれにせよ、記念すべき50回である。時間にすれば5年近い。色んなことがあったもんだ、と我ながら感動する。補整下着も買った。エステにも行った。旅もしたし、ひどい目にもあった。ではいったい私はどう変化してきたのか、と考える。 すると、最近何を着ても変なことに気づく。何が、と言うと、鏡に映った自分が、である。顔と服装が合わない。何もかもどんよりしている。身体の全てが下へ、下へ、とへりくだる。歌を歌っているせいもあるが、首が太くなる。その一挙手一投足が一言で言って中年なのである。取り立てて太ったとか、白髪だらけになったとか、そういうわかり易い兆候はない。しかし、何もかもが変化しているのだけは感じ取れるのである。だいたい、人間のジェネレーションというのはどこで見分けるのだろう。最近私がショッピングに行くと、店員さんはほぼ120%敬語を使う。数年前まではタメ口をきく店員もいたのに。いったいどこを見て自分より年上だと判断するのだろう? 世の中を見回す。確かに年齢のメヤスというのはある。子供と老人を見間違うことは絶対無い。しかし、お婆さんとお爺さんを見間違うことは時々ある。これはどうしてだ?年を取ると性別を超越するのだろうか?そもそもそれぞれの年代にはどんな意味があるのか。例えば赤ん坊。ろくすっぽ歩けないうちに体重は5キロにも10キロにもなる。お米の袋とほぼ同じである。その重たい赤ん坊を、親は後生大事に運ぶのである。何故か?赤ん坊は何もできなくても、可愛い仕草などして大人の心をつかむからだ。あれがただの愛想のない米袋だったとしたら、誰が我慢して運ぶだろう?つまり、ここで大人に見捨てられたら人類は絶滅してしまうからである。そして出産適齢期の女性。彼女たちが余程のことがない限り、弾けるように美しいのは、オスを惹き付けて種の保存をしなければならないからだ。何もかも理屈にあっている。いい人がいつまでも若く美しく、悪い人がさっさと年を取るわけでは決してない。とすると、出産適齢期を過ぎた、特に女性に残された任務とは何なのだろうか?人間は種の保存だけのために生きているわけではない。しかし、やはり我々はその幻想にしがみつく。より若く、より美しく見えたいという願望は、生物としてのピークを忘れられない、ということでもある。 ところで私は自由業なので、服装に関してはかなり気楽だ。何を着ていようと、あら、変なカッコウねと思われるくらいで、それがどうした、大したダメージもない。それに、歌を歌うなんてことは、一旦ステージに上がればドレスを着たりもするが、実際は譜面や衣装の入った重たい荷物をひとりで運び、夜道をえっちらおっちらひとりで帰宅するのだから服装は動きやすいもの、例えひとりで荷物を運んでも、気分が落ち込まないように、自然、高校生と同じようなファッションを選ぶ。これは長い間に身につけた処世術のようなものだ。しかし、それが顔とマッチしないとなると、いったいどうしたものか? 恐らく大事なのは、若さへの幻想を捨てることだ。若作りをして逆効果になるくらいなら、いっそのこと「老け作り」をしたらどうか?つまり、私が高校生の格好をするのはいくらなんでも無理がある。しかし、これが70代の女性のするようなファッションだったらどうだろう?どう見ても、反対にいい感じに見えるのではないだろうか?銀座のクラブのママが、例え20代でも、年増の着るような着物を着て、逆に綺麗に見えるのと理屈は同じだ。つまり発想の転換をするのである。しかし、では、いったい70代以降の女性はどんな格好で生活しているのだろうか? そこで、私はリサーチのために、自宅から決して遠くはない「お婆ちゃんの原宿」として知られた巣鴨の「とげぬき地蔵」の界隈へ出かけていくのであった。(続) 2003年7月 続・発想の転換 いったい70代以降の女性たちはどんなファッションをしているのか・・・。これが現在私のテーマとなっていることは、前回お話した通り。つまり、やがて来るだろう老後のファッションを今から先取りして「老け作り」をしていれば、自分の日々の老化に落ち込むこともないだろう、という発想の転換である。 という訳で、私は豊島区巣鴨にある「地蔵通商店街」へ出かけて行った。この通りはJR巣鴨駅から都電庚申塚駅に通じる商店街で、まさに「お婆ちゃんの原宿」と異名を取るだけの貫禄がある街だ。メインはやはりとげぬき地蔵のある「高岩寺」だろう。「刺抜き」というくらいだから身体の痛いところを治してくれるのだ。しかし、この商店街。いきなり饅頭屋と煎餅屋の応酬で幕を開ける。これでもかと饅頭と煎餅である。それから目立つのが漢方系の薬局。肌着屋。歩きやすそうな靴屋。次いで帽子屋。この通りを貫く共通のテーマはズバリ「健康!」である。 まずはとげぬき地蔵に向かう。すると、境内のスピーカーから何やら豪華なビブラートの歌が聞こえてくる。私は思わず物陰に身を隠した。何故なら、歌っているのが同業者かもしれないからだ。時々思わぬところで同業者が営業仕事をしているのに出くわす(あるいはこっちがやっている時に出くわされる)ことがあり、そういう時には何とも言えぬ気まずい空気が漂うのである。だから私は物陰から境内の様子をうかがった。しかし、歌っているのは演歌歌手だった。よかった。知らない人だ。演歌歌手はぼんやりと椅子に座ったお年寄りたちと握手を交わしながらカラオケで歌っていた。しかしそれにはまったく構わず、長蛇の列が並ぶ。何だろうと見ると、観音様だ。自分の痛いところを観音様の身体になぞらえて、水で塗らしたガーゼでこすると、痛い部分が治るとか。 化粧品店。笑楽童「地蔵化粧品」とある。お年寄りはこういう化粧品を使うのか。赤いボトルでめでたい感じ。キャッチコピーが素晴らしい。「しょうらくどう(笑楽童)へ行くどう!」・・マイッタ。通り一番の衣料品店「マルジ」。「若ガエルパンツあります。」(もちろん蛙のイラスト有り)「日本一の赤パンツ」。どうもここが健康増進に赤いパンツが効くという伝説を生んだ店らしい。店内に入る。すさまじい品数と、どこに何があるのかわからない程の雑然とした店内。売り場ごとに小さなカセットレコーダーが置かれ、繰り返し製品のコマーシャルが流れている。ある一角は目を疑うほどの大量の赤パンツを陳列してある。さっそくそこへ行く。同じように見えて実に様々な赤パンツがぶる下がっている。感動したのは十二支ごとの絵が描いてあるものだった。「ご自分の干支を選んで、またはお友達の干支をプレゼントに!」とカセットは言っている。その上、「そこで一句」「健康祈願。嬉し恥ずかし赤パンツ」何故いちいち一句詠まなければならないのか、その理由は不明だったが、取りあえず2枚組740円というのを買う。最近腰の痛い母のためである。私は親孝行なのだ。まちがっても自分のためではない。別のコーナーではこの店のご自慢の「5本指靴下」を売っている。ここにもカセットは流れる。「そこで一句。指広げ、幸せ運ぶ5本指」「靴脱げば、笑い広がる5本指」すると、あたりには買い物客から募集したと思われる歌の数々が短冊に書いて張り出され、特賞だとか優秀賞だとか書いてある。「大地踏み、今日も歩くぞ5本指」「タマちゃんに履かせてみたい5本指」・・・・・。まったく何を考えているのかさっぱり分からない。夏のバーゲンの宣伝ポスターには「お地蔵サマー」と書いてある。さすがに馬鹿馬鹿しくなって、5本指は買わずに代わりに500円の日傘を買う。店を出てさっそく差してみると、風に吹かれてたちまちオチョコになった。だまされた気分。 私はだんだん自分が何をしに来たのか分からなくなってきた。どの衣料品店も異様に派手なフラダンスみたいなワンピース、光ものの大きなTシャツ。かと思えば、世をはかなんだような薄暗い色のブラウス。ゆるめのスパッツ。特大ウエストゴムスカート。ああ。そうなんである。年を取るにつれ、一番大事なことは、「楽」かどうかなのだ。あとは派手好きはより派手に、そうでない方はそれなりのデザインを選んでいるというわけだ。まだこれを真似しちゃいかん。私の心の声は叫んだ。こんな楽な格好をしていたら、たちまち身体が好き放題にゆるんでくるであろう。やはり多少無理でも若作りをして自分に渇を入れるほうが前向きである。 家に帰って母に赤パンツを渡す。すると母は「こんなもの、誰が履けますか。お婆さんみたいじゃないの!!」 大したものである。 2003年8月 大道芸はどこへ行くのか 道端で芸を見せて、御代をいただく古今東西続いているこの芸能。日本でよく知られているのは南京玉すだれ、ガマの油売り、バナナの叩き売り、飴細工・・・。物売り芸とでも言うのだろうか?流しの歌や獅子舞も大道芸と言ってもいいのかもしれない。西洋だと、何と言ってもジャグリング、パントマイム、火吹き男なんていうのもいる。純粋に芸を売るほうが多いように思う。 私が初めて大道芸を意識したのは、20歳そこそこの頃、マルセル・カルネ監督の「天井桟敷の人々」を見た時だ。中野の名画座で見たこの長編映画は、当時シャンソンやらボーヴォワールやら、やたらフランスかぶれしていた私の目には天国のように美しかった。中でもジャン・ルイ・バローの扮するピエロの「バチスト」の美しさと言ったら、ひっくり返りそうだった。私は何日も映画館に通い、映画館のおじさんにポスターをねだったが、おじさんは大変なケチで、ガンとして私にポスターをくれなかった。寝ても覚めてもジャン・ルイ・バローだったので、何としても彼の写真が欲しくて、神保町の古本屋街で古い映画のパンフレットを見つけた時は死ぬほど嬉しかった。それを写真屋に持っていって60X90の大きなパネルに複製拡大してもらった。著作権無視の違法行為ですから、部屋に飾るだけにしてくださいよ、などと言いながら写真屋は一万円を請求した。当時は今よりも更に貧乏だったが、私は文句も言わずに支払った。ジャン・ルイ・バローのためならお安い御用だったのである。 それだけではなかった。いきなりだが、私はジャン・ルイ・バローになりたかった。そのためにはパントマイムをやらねばならない、というところへ直結するのである。日本にパントマイムの学校があるとは思えなかったが、探せばあるもので、結構あちこちでへんてこな芸を見せている団体がある。色々見て歩いたが、ジャン・ルイ・バローとは全くかけ離れていた。うんざりしていたある日のこと、何かのチラシで府中のホールでぴえろ館という名前の劇団主催のマイム公演があると知る。大して期待もせずに行ってみると、そこでは清水きよしというパントマイマーが落語を題材にしたマイムやらオリジナル作品をオムニバス形式で演じていて、まずはその技術の高さにびっくり。今までどこでも見たことのない完璧な動き、装置も何もない舞台が釣堀になったりビルの壁になってみたり、もちろん風船も出てくるし、子供も、老人も、その上その舞台には色もあり、騒音もあり、静寂もある。しかし、ふと冷静になって見ると、そこには一人のパントマイマーしか居ないのだった。目から鱗が落ちる、というのはああいうことを言うのだろうか。私は今まで目に見えるものしか見ていなかったし、手品でも、魔術でもなく、何の道具も無しに、見えないものを目の前で見せてくれるとは!!おまけに清水氏はジャン・ルイ・バローそっくりだった・・・。少なくともその時の私はそう思った。 翌日さっそく電話をかけてぴえろ館に入団。団員わずか数名。府中の元米軍ハウスを改造した稽古場に住む清水夫妻のもとで、いよいよ私はパントマイマーになるべく稽古に明け暮れるのである。あまりよく稽古をしたので、私は風が吹けば飛んでしまうほど細くなった。劇団員はバイトをしながら稽古をするので、誰も皆、貧乏のどん底だった。公演の前に稽古が立て続く時など本当に大変で、稽古が終わって皆で食べる食事は先生の畑で取れたトマトだったり、2切れのシャケを10人位で食べたこともあったと思う。しかし、たまにはこうした半人前の劇団員にも、それらしいバイトが回ってくることもあった。まだろくすっぽ動けないので、できることと言ったら、「動かない」ことだった。それは何かというと「人形振り」である。皆さんは道端でシルクハットを被って白い手袋などした、人間なのかマネキンなのかよくわからない人物がじっと立っているのを見たことがあるかもしれない。瞬きひとつしないので人形なのか、と思うといきなり動いて人を驚かせたり、なかなか手ごわい人物だ。あの正体はパントマイマーである。私たちにもこの手の仕事は時々来た。まず化粧の塗り方を習う。真っ白な水おしろいで顔中白塗りにして、目の周りには黒々とマツゲを書く。目の下に涙の雫などを書いてもよい。衣装は憧れのジャン・ルイ・バロースタイル。いわゆるピエロである。しかしこのピエロ。サーカスに出てくるようなグロテスクでみっともないピエロではない。月を眺めては涙するような中性的、かつ美しいピエロである。頭には毛糸で作ったボサボサのカツラを被り、その上に帽子を被っても美しい。私たちは稽古場で化粧を済ませ、衣装に着替えると、それぞれ自分の美しさにうっとりしながら、意気揚揚と「人形振り」に出かけるのであった。目指すは、近所の神社であった。(続) 2003年9月 続・大道芸はどこへ行くのか 美しいピエロに変身した我々パントマイマーの卵たちは、いそいそと近所の神社の祭に出かけていった。しかし、祭というのは素晴らしい。普通、朝の通勤電車の中とか、授業中の教室とかに、ウルトラマンやピグモンなどの怪獣や、どらえもんの着ぐるみが現れたら、きっと彼らは叱られるに違いない。ところが祭の場ではどんなものが現れようと、大目に見てもらえるどころか、待ってましたとばかりに迎えられるのである。それだけ祭には日常生活から遠く離れたい、という気持ちが溢れているのだ。もちろん私たちも尊敬の眼差しで迎えられた。気分のいい私たちはそれぞれバラバラに離れた場所に立ち、いざ人形振りを始めた。生きた人形になり切ってじっと身動きも瞬きもせずに、多少身体をピサの斜塔状態に傾けて立つのである。これも稽古の成せる業だ。まず近づいてくるのは、小さな子供たちである。「これ、本当に人形なの?」などと言いながら白塗りの私の顔を怖そうに眺めている。私は嬉しくてたまらない。しばらくじっとして突然その子達の方を振り向き白い手袋をはめた手をゆっくり振ってやる。子供たちは大きな歓声を上げながら、中には転がりながら逃げていく者もいる。そしてしばらくすると又近づいてくる。飽きもせず何度でもやっている。仕舞いにはこっちの方がすっかり飽きてくる。そうすると今度は中学生くらいの浴衣の女子が大勢でやってくる。当時はまだ茶髪もヤマンバもいない時代だから、浴衣の女の子たちはみんなツルリとした素顔に黒髪である。「この子可愛いね。」などと私が大喜びしそうなことを言う。中にはちょっと指先で顔をつついてくる子もいる。そうすると連れの子が「そんなことしたら可哀想だよ」などと言う。私はもう嬉しくてたまらない。瞬きはせずにその子の手を取り握手をする。すると女子たちは悲鳴を上げてどこかへ行ってしまった。次々と人が来る。嬉しい。しかしだいたい大人はダメである。「この人いくつくらいかねえ」とか「こんなこと何でやってんの」とか、つまらないことを言う。しかし見習いパントマイマーの持たせられる時間などほんのわずかである。世の中には何時間も街角で人形振りをするマイマーもいるが、そういう人はかなりの上級者である。まず、瞬きをしないので、目が乾いてくる。仕舞いには目が充血し涙目になる。そうなってくるとタイムオーバーである。我々はいい加減くたびれはて、師匠の撤収の声を待った。その頃になると芸のない私たちに興味を持つ人も減り、帰り道は誰も名残惜しむわけでもなく、ちっとも目立たず、ただの人になっていた。しかし、私たちは初めての体験に大得意だった。 それからというもの、よみうりランドだとか、地方の祭、はたまたカルチャーセンターのデッサンのモデルなど、動かない芸を売り物に皆でワゴン車に乗ってアルバイトにでかけたものである。ある時はテントの中で未熟なマイムを披露したりした。すると隣のテントでは「黄金バット」の最後の現役紙芝居オジサンが「ギャオス、ギャオス」などという、聞いたこともない声色で悪役を演じ分けていた。オジサンが我々のつまらないパントマイムより遥かに人気があったのは、駄菓子がもらえる、ということだけではなかっただろう。あの擦り切れた様な紙芝居の絵といい色といい、オジサンの過ごしてきた時間が浮き上がってくるようで、そこだけ霞がかかっているようにも思えた。 パントマイマーは大道で演じなければ本当の力は付かない、という師匠の教え通り、その後私は劇団員の男子と二人でいよいよ大道芸に出かけることにした。どうせやるなら銀座の歩行者天国だよね、などと気張って衣装と化粧道具を持ち、デパートのトイレで着替えを済ます。その出で立ちで歩いているだけで奇異な目で見られるのだが、中には「まあ、可愛いわ」などと言ってくれる老婦人がいたり、「ただ目立とうとしてるだけだろう」などという中年男性もいた。今も昔も男の方が融通が利かない。松屋デパートの前に場所を決め、二人で綱引き、風船、壁つたい・・・など、知ってる限りのマイムを披露。しかしネタは早くも尽き、そもそもお代をいただこうなどとは思ってもみなかったので、人垣が出来たころには空を指差しまるで何かを追いかけるように人垣を潜り抜けて走り去る。どこまでも走ってやりっ放し芸は終了。何とも無責任な話である。しかし我々はそれぞれ色々な場所で少しずつパントマイムをやるようになっていた。中には人形振りの途中で、観客から手の平に「黄な粉」を乗せられ(たぶん祭の露店の食べ物に付いてきたものだろう)それが風の強い日で、見事に目に入り、ずいぶん酷い目に合った者もいた。世の中には心底意地の悪い人がいるものだ、と思った。が、何にせよ我々の芸はまだまだ人様にお見せするようなものではなかった。みんな早く上手くなりたかった。一人前になりたかった。それぞれの芸風の違いが見えてきたのもこの頃である。 同じ年頃の半人前が集まったので、試演会という名の発表会が始まった。ストーリーも衣装も音楽も何もかも自分で考え、近所の人やバイト先の友達を観客として稽古場に動員して、一人ずつ演じて見せるのである。(続) 2003年10月 続々・大道芸はどこへ行くのか 自作自演のパントマイム公演で、我々は大いに張り切った。パントマイムには「タイトル持ち」という芸もきちんと確立していて、演じる本人以外の演者が、これから演じられるマイムの題名を書いた画用紙大の紙を持ち、ものの10秒ほどポーズを取る。その間暗転の舞台の上で、ポーズにだけ照明が当たる。これもマイムの大変重要な役目である。落語や講談の舞台で日めくりのようなお題が飾られるが、あれと同じ役目である。私は特にこのタイトル持ちが好きだった。 我々は、自分にしか分からないストーリーを無言で演じた。何せ少々のBGM以外何の効果音も台詞も無いわけだから、きちんとした筋立てと、それを無言で伝える技術が無ければならない。中にはとても上手くそこに無いものを見せることのできる器用な者もいた。今は世界で活躍している勅使川原三郎さんが在籍したことすらあった。彼は我々とは全くレベルが違ったので、既に自分の公演を打っていたが、ダンスともマイムとも付かない斬新な作品は社会的にも群を抜いていた。私などは、今ここに有ったはずの物の位置を自分が忘れるので、そもそも元々何もないところで演じるお約束がバラバラになってしまい、何のことやらさっぱり分からない作品を得意げに披露していた。安部公房の作品を一人で演じて見せたときは悲惨だった。筋立て自体が不条理の上に、現物は何もないわけだから、いきなり客席に座った人にとっては、タコが踊りを踊っているように見えたことだろう。一言で言って、私には才能が無かった。 しかし、そのうち私は自分の作品の内容よりも、上演中のBGMに凝るようになっていった。ジョルジュ・ブラッサンスやエディト・ピアフのシャンソンは格好の材料だった。ムスタキが「シャンテ・タ・ノスタルジー」(あなたのノスタルジーを歌え)と歌う時、私は感動してパントマイムどころではなくなった。自主練習中はしばし身体を横たえてシャンソンを聞いていた。部屋の中では、シャンソンのレコードのジャケットがジャン・ルイ・バローのパネルの前に飾られるようになった。そうこうしているある日、師匠の清水氏は私に言った。「あなたはこれからもパントマイムを続けるつもりですか?」私は真面目に稽古に通う良い弟子だったが、師はどうも私の中の別の血に気づいたらしい。事実私は無言で何かを演じ続けることに苦痛を感じ始めてさえいた。自分を表現するのに、声を奪われていることが辛かった。しばらく考えてから言った。「先生、私歌が歌いたいです。」 当時、パントマイマーがシャンソンを勉強し、シャンソン歌手がパントマイムを勉強する、という相互協力があった。フランスの歌手(イヴ・モンタンやらコラ・ヴォケールなど)が歌いながら手振りでマイムをするのをそのまま取り入れていたのだろう。清水氏はさっそく彼自身のシャンソンの師匠である堀内環氏が歌っている吉祥寺のシャンソニエへ私を連れて行ってくれた。そして堀内氏に頭を下げて、「よろしくお願いします」と私を引き合わせた。さほど豊かでなかった当時の師が、決して安くはないシャンソニエの料金を二人分払ってくれた。今思っても何故清水氏がそこまでしてくれたのか不思議だ。神様みたいな人だと思う。その日から私は歌手を目指すようになった。ジャン・ルイ・バローに始まった私のパントマイマーへの夢は、わずか数年であっけなく終わった。イージーにイメージだけを追っても芸事は続かない、ということを私はその時痛感した。本当に好きなことに出会うこと、そしてそれを渇望して具体的に続けること、結局それだけの話なのである。けれどそれができなければ永久に芸の道には入れないのである。 歌手がいきなり道端で歌う、ということはまず無い。しかし大道芸は芸人の原点だと私は思う。知らない人の前に出かけていって賛否を仰ぐ。喜んでもらえれば成功。足を止める人が居なければ失敗、なのだ。もちろん、どんな場所に出かけていくか、は選ばなければならないけど、10分、30分、1時間を自分に引き寄せられるのか、大道芸人たちは厳しい試練をくぐって好きなことを続けているのだ。そう言えば、最近は大道芸人にも認定証が必要だとか。かつての私なら絶対いただけなかったと思うと、さっさとパントマイムを諦めて本当によかった。けれどいつまでも精神は大道芸人でありたいと願うばかりである。(終) 2003年11月 嬉しや楽し。国外脱出紀行 久しぶりのCD製作の締め切りを目前にして、製作スタッフが日夜苦労している最中に、私は大ひんしゅくの罵倒を背中で聞き流し、それでもタラップを上がるのだった。何故こんな時期に呑気に旅行などするのか、自分にもその理由は分からないが、その気になった時がその時期なのだ、という信念に基づいて、目指すはスペイン・ロンドンである。今回の同行者はトモコさん。実はトモコさんのお嬢さんのカズエさんがロンドンに語学留学したのをいいことに、今回の旅行は計画されたのである。カズエさんの友人のキエさんはスペインに美術留学。みんな若くて勉強家である。当然スペインにも行こう、ということになった。思えば何とも虫のいい話である。海外暮らしの若者の協力を得て、初めての土地をスイスイ歩こうというのだから。 スペインに日本からの直行便はない。ロンドンを経由してマドリッドに到着。キエさんが空港まで迎えに来てくれる。ホテルに荷物を置くと、新しくできたというタブラオ(フラメンコ酒場)に出かける。ここのダンサーは、よくあるゴテゴテとした衣装は付けず、ごく普通の服装で踊る。最近の傾向なのかもしれない。女性ダンサー3人のうち一人は大変美しい。やはり踊り手は美しいほうがよい。どうしても彼女に目が行ってしまう。体型や美貌に勝るには、そうとう踊りが上手くなければならないだろう。 朝からプラド美術館へ。ちょうどマネを特集していた。おびただしい宗教画や貴族の肖像画。こんなにたくさんの本物がさり気なく剥き出しで壁に張り付いていること自体日本では有り得ない。スペインの田舎から来たと思われる中学生くらいの子供たちが先生の説明をよそに、ベンチに座るトモコさんと私の方をチラチラと見て笑っている。東洋人を見るのが珍しいらしい。こんにちは、と話し掛けると、皆先生に背を向けて私たちの周りに集まってきた。片言の英語で自己紹介をし合う。大喜びである。この平らな顔がそんなに珍しいのか。日本人観光客なんてたくさんいるだろうに、変な子達だ。どうぞ気が済むまで眺めてください。きっと我々の顔は偉大なる宗教画に勝るのである。 スペイン人は昼寝をするので、昼間は商店もみな休み。しかしこの国は、外国に来た、という違和感全くが感じられない。背丈も日本人と変わらないし、黒い瞳に黒い髪も多く、振り返るほどの美人も見当たらず、お洒落な人も少ない。スリや物乞いが多いということからも、たぶん生活は楽でないのだろう。途中キエさんの学校を見学。ここには老いも若きも、色んな生徒が集まる。みんなでヌードデッサンをするのだそうだ。日本に比べると美術に触れ合う感覚がとてもナチュラル。生活の一部になっているような感じさえする。国全体が美術館みたいなものだから、当然DNAにアートが組み込まれているんだろう。 キエさんのアパートを訪問。物騒なことも多いらしく、ドアのカギの数の多いこと。アパートは女性専用で、色んな国の人と4、5人でシェアしている模様。町の中では洗濯物は見えないが、アパートの裏庭にはちゃんとブラブラぶら下がっていた。やっぱりどこへ行っても人間は同じようなものだ。夜は当日券が手に入ったので、スペイン版「オペラ座の怪人」を見に行く。ロンドンやブロードウェイならいざ知らず、スペイン版を見るというのが何ともいい感じ。残念ながら劇場には空席がめだつ。地方からきた高校生の団体が座っていたが、ニキビ面で友達と悪ふざけをしている。これも世界共通。マドリッドでは映画館が人気らしく、若者が列をなしていた。 翌朝は長距離バスに乗ってトレドへ。この中世の薫り高い古い城下町は現在進行形で人の住む町でもあり、ちゃんと生活の匂いがする。小さな町には教会がたくさんあるが、ほとんどが観光客には扉を閉ざしていた。一番大きいカテドラルはほとんど観光用。ここまで古くて大きくて由緒正しいと、日常用の教会という感じは全くしない。どこもここも石畳と路地でエキゾチックですらある。エル・グレコの門外不出の作品も見られた。 午後はソフィア王妃芸術センターへ。20世紀の作品が中心。ピカソのゲルニカがこんな近くでそれも大したひとけのないだだっ広いフロアで見られる贅沢よ。これだからヨーロッパは奥が深い。スーパーマーケットで買い物をしてから地元の人に人気のある小さな居酒屋で乾杯。こっちの人の買い物はすさまじい。一人で大きなカートをいくつも一杯にしてレジに並んでいる人を見ると、めまいがする。あのスケールで買い物をされたんでは、レジの順番は永遠に回ってこないだろう。いったい、何か月分の買い出しなんだろうか。居酒屋はカウンターで立ち食いというのが一般的だが、取りあえず椅子席もある。卵やトマトやジャガイモの料理が多い。飾り気のない料理。店の人もあまりお客に気を使わない。色んなことを気にしないらしい。お国柄だろう。 地下鉄やバスを乗り継いで、キエさんのテキパキとした案内のお陰で、実に安全でリーズナブルな観光ができた。彼女は世界中を歩き回りつつ、日本では既に個展も開いている。細い身体だが、とにかくパワフル。海外にはこういうライフスタイルの日本人も多いらしく、緊張感を持ちつつ、恵まれた環境の中で生活している。彼女が将来画家として自立できる日を祈りたい。 翌日はロンドンへ。今度はカズエさんが迎えに来てくれる。地下鉄に乗ってホテルに着くと、まずはテートモダンという美術館へ。ここは新しい作品ばかり。NYのMOMAに似た雰囲気だ。日本人の作品もあったし、実際に遊べる実験的オブジェも多く楽しい。やはりアートは生ものだから、新しい作品にはパワーがある。ロンドンの人はスタイルはさほどでないが、着こなしが上手い。チープそうな服も素敵なスタイリングでとてもファッショナブル。見ていて飽きない。 夜はカズエさんが探しておいてくれたジャズライヴへ。ちょうど金曜日の夜だったので店は長蛇の列で、それも立ち見である。ここはロンドンでも有名なライヴらしく、すごい人気だ。まずは南米系のジャズシンガーのステージを見る。ピアノトリオと歌手一人という、見慣れた風景。ステージ自体も日本とさほど違いはなく古いスタンダードナンバーを歌う。上手だけれど驚くものはない。そのうち席が空いたので腰を落ち着けた。第2ステージはカメルーンから来たグループ。言葉も分からないが、バンドのまとまったパワーはすごい。最近のライヴはどうしても黒人の方が分がいいのはオリンピックに同じ。リズムといい音の力強さといい、そのうち地球上は黒人だらけになるんじゃないか、と思うほどタレントに溢れている。あまり楽しかったので、ライヴ終了まで見届けると、すでに深夜の3時である。雨も降り、タクシーもつかまり難くて一瞬困ったが、2階建てのロンドンバスが朝まで運行しているのでホテルの傍まで行くのを探して停留所で待つ。この日はハロウィーンだったので、変な格好をした大人がウロついていた。面白いので写真を取らせてもらう。気のいい黒人のギャルが何かと親切にしてくれる。いとこが日本に住んでいるのだと。 カズエさんの話だとイギリスの主婦は料理を嫌うらしい。スーパーに行っても、あるのは冷凍食品やレトルト系ばかり。野菜もカット野菜で袋に入れて売っている。イギリスの料理に見るべきものがないのもこの辺が原因なんだろう。それに驚いたことに食器を洗剤で洗ったあとに水ですすぐことをしないとか。どんなに優秀な洗剤でも、健康にいいはずはない。イギリスの将来を案ずる。 翌日、私は一人で長距離バスに乗ってカンタベリーへ。バスのチケット売り場の窓口では、一生懸命英語で注文しようとすると、「どこに行きますか」と日本語で返ってくる。黒人のお兄ちゃんは日本語を勉強中なので話したくて仕方ないらしい。そのうち私の窓口にはドラエモンやキティーちゃんの縫いぐるみが飛んでくる。隣の窓口の前歯の欠けたオジサンが投げてよこすのだ。彼も日本が好きでもう11回行っている、と。あんたどこに住んでるの、と聞くのでトウキョウよと言うと、トウキョウの何処だと言う。イタバシクよと言うと何だ池袋の傍かと言った。ロンドンまで来て池袋の話はしたくない。まったく緊張感のない会話である。いったい日本のどこがそんなにいいんだろう。 カンタベリーは英国国教会の大聖堂がある街だが、今やほとんど原宿である。ショッピング街と言ってもいいだろう。私は自分の宗派の総本山なので、聖堂内を丁寧に見て回ったが、土曜日だというのに観光客は多くない。カトリックの教会に比べたら地味な造りだが、そこで観光客の世話をする人たちの何と親切なことよ。3時から聖歌隊による礼拝があると言うので街で時間をつぶしてから礼拝に参加する。聖歌隊はボーイソプラノと男性による50人程度の大所帯。ウイーン少年合唱団張りの素晴らしい歌である。見事にアカペラを決めていくワザの凄さは恐らく英才教育や徹底したトレーニングにあるのだろう。それに引き換え会衆は20人程度。こんな贅沢ってあるだろうか。私は東京の聖歌隊で歌っていますと、牧師に話すと、「あなたが一緒に歌えば我が聖歌隊はもっと素晴らしくなるだろう。」などと、私の歌を聞いたこともないくせにお世辞を言ってくれるので、「そりゃ、そうでしょう。私もそう思います」と答えておいた。私は国際的にずうずうしい。 短い旅はこのように中身のギッシリ詰まったものになった。キエさん、カズエちゃん、ありがとう!! | |||